長崎市の浦上天主堂(カトリック浦上教会)の前にある商店街から歩いて3分ほどの場所に、今年1月に開館した「浦上キリシタン資料館」がある。
浦上出身のカトリック信徒、岩波智代子さん(東京都在住)が、所有していたマンションの1階を提供し、カトリック長崎大司教区などの協力で昨年プレオープン。250年間潜伏を続けた長崎の隠れキリシタンが、訪日したフランス人宣教師のベルナール・プティジャン神父に信仰告白し、世界的なニュースとなった「信徒発見」(1865年)から150年となった今年、1月に正式に開館した。
1945年の原爆被害のため、浦上地区では信徒約1万2000人のうち、約8500人が死亡したとされ、歴史的な資料はほとんど残っていない。「浦上四番崩れ」など、キリスト教弾圧の過去を知らない若い世代が増えていることを知った岩波さんは、「一番大切な精神が途絶えてしまう」と考え、「禁制と弾圧を生き抜いた信徒の歴史」と「原爆の被害」を特徴に掲げ、展示資料の提供を呼び掛けたところ、次第に展示物が集まってきた。
8月下旬までは、被爆70年企画「聖母がみた原爆」と題して、1945年9月に、原爆調査団の一員として長崎の被害を調査した渡辺武男(東京大学教授)による被爆直後の資料や写真を中心に約50点が展示されている。
原爆投下時刻の午前11時2分過ぎで止まっている柱時計は、爆心地から約600メートルの場所で被爆した浦上教会の信徒、深堀柱さん(85)が寄贈したものだ。
また合わせて、江戸時代以来、ひそかに信仰されてきたキリスト教の歴史を物語る資料も展示されている。
江戸時代後期の安政4年(1857年)に、泉福寺に掲げられていた切支丹懸賞訴人の高札には、不審な者について申し出れば、伴天連(宣教師・司祭)銀500枚、いるまん(助祭)銀300枚、立ちかへり(いったん仏教に改宗したが再び切支丹になった者)銀300枚、信徒銀100枚を褒美として与えると書かれている。
水彩画で描かれた聖画「聖母マリアの御絵」は、1633年から1637年にかけて、長崎で殉教した長崎16聖人の1人である、日本人司祭ビセンテ塩塚が制作したものだと考えられている。フランシスコ会の信徒組織が礼拝で使用していた可能性があるという。その後、信徒の間でひそかに受け継がれ、幕末・明治期に長崎で布教したパリ外国宣教会のポワリエ神父が出津の信徒から譲り受け、1869年ごろにプティジャン神父が帰国した際に持ち帰り、パリのカプチン・フランシスコ修道会フランス管区本部に保管されていた。2009年にフランス人の研究者が聖画の存在を知り、プティジャン神父の手紙に書かれていた聖画のことだと確信し、長崎大司教区に報告。2014年5月にフランスから返還され、長崎に145年ぶりに里帰りを果たした。
潜伏キリシタン信仰が継承されてきた長崎県の旧外海町出身で、自身の先祖も潜伏キリシタンで、現在はカトリック信徒だという学芸員の日宇美枝さんによると、同館には県外や海外からもたくさんの人々が訪れるという。
9月からは、長崎大学医学部の医師として被爆し、被爆者の救護活動に関わったことで知られる永井隆のノートや絵画などの遺品が展示される予定で、今後も浦上のキリスト教の歴史をテーマにした展示を3カ月ごとに続けていくという。
弾圧や原爆の悲惨な歴史の中、400年間信仰が受け継がれてきた浦上の地で、その歴史を語る遺物を見ることができるのは貴重な体験だ。長崎に足を伸ばすときには、ぜひ訪れてみてはいかがだろうか。