1940年、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで、日本政府に背き、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6千人のユダヤ人難民を救ったことで知られる杉原千畝(すぎはら・ちうね、1900~86)。12月には、戦後70年特別企画として映画『杉原千畝 スギハラチウネ』の公開が決まり、関心が高まる。
海外では、センポ・スギハラ、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる杉原氏は、1900年岐阜県に生まれた。早稲田大学在学中に、外務省が募集していた留学生の試験を受けて合格。中国のハルピン学院に留学することになる。その後ロシア語を習得し、ハルピン学院でロシア語を教えるまでになり、その才能が外務省に認められて書記生として採用され、外交官の道を歩むようになる。
英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語の語学に精通し、中でもロシア語の能力が極めて高かった杉原氏は、ノンキャリアでありながら、外務省きってのロシア通として知られ、異例の昇進と待遇を受けている。カウナスでの仕事は、40年9月に締結することになる日・独・伊の三国協定を前にして、ドイツとソ連の情報を集めることであり、その適任者として、仕事を精力的にこなせて、ロシア語が堪能であるという理由から杉原氏に白羽の矢が当たったのだ。
夫人の幸子さんの著書『六千人の命のビザ』によると、リトアニア領事官には数人のスパイが出入りしていたという。そして、収集した情報の報告書は、本省である日本の外務省、ドイツ大使、上司であるラトビア公使に送られた。杉原氏が走り書きしたものを清書するのが、幸子さんの役目だったという。また、休日には、家族だけでよくドライブをしていたが、それも情報収集の一つだったと後から知ったことが記されている。
このように国家機密に関する外務省の仕事を忠実にこなしながら、その一方で外務省の命令に背き、同盟を今まさに結ぼうとしているドイツが敵視するユダヤ人のためにビザを発給することを決意し、実行に移した。このことは、太平洋戦争末期に、多くのユダヤ人の命を救ったことで知られるオスカー・シンドラーというドイツ人(生まれは現在のチェコ)の実業家になぞられ「東洋のシンドラー」とも呼ばれることになる。ただ、この決断をさせたのは杉原氏の信仰であり、その実行には幸子さんの後押しがあった。
幸子さんは著書のあとがきで、杉原氏が「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」という言葉を述べていたことを明かす。さらに、中国ハルピンにいた頃、ギリシア正教会で洗礼を受けていた杉原氏が、「神は愛である、愛は神である」というヨハネの第一の手紙4章の教えを信じ、「異邦人であろうと人間と人間の愛は世界の幸せにつながる」と考えていたことは間違っていなかったと、自身もキリスト教徒である幸子さんは語っている。
杉原氏は、ビザを発給するとき幸子さんに、「外務省に背いて、領事の権限でビザを出そうと思う」と決意を述べ、「ここに100人の人がいたとしても、私たちのようにユダヤ人を助けようとは考えないだろうね」と言ったという。幸子さんがこのとき、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください」と答え、その後2カ月にわたる過酷なビザ発給作業を続ける杉原氏を、幸子さんは陰で支え続けた。
1947年に日本に帰国した杉原氏は、外務省を依願退職させられることになり、不遇ともいえる生活を送ることになるが、1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞する。そのときの取材で、「私は、あのとき、ビザを出したことを誇りにしています。外交官としては問題のある行為でしたが、人間としては間違っていなかったと思います」と答えている。
杉原氏が亡くなったのは、96年7月31日。杉原氏と幸子さんの最後の会話は、「君と一緒になって本当によかった」だ。また、息を引き取るときの最後の言葉は、「ママは?」だった。21歳で杉原氏と出会い、結婚して杉原氏を支え続けた幸子さんは、2008年10月8日、94歳で亡くなっている。葬儀では、映画『シンドラーのリスト』のスティーブン・スピルバーグ監督からも弔電が寄せられたという。
■ 映画『杉原千畝 スギハラチウネ』予告編