聖大致命者・廉施者である聖パンテレイモンの記念日である9日、ロシア正教会モスクワ総主教庁渉外局長であるボロコラムスク府主教イラリオンは、モスクワにある生神女マリヤのイコン「全ての哀しむ者達の慶(よろこ)び」聖堂で聖体礼儀を執り行った。ロシア正教会が公式サイトで伝えた。
この聖体礼儀の後、イラリオン府主教は参祷者に対し、信仰の力を強調する説教を行った。
「遠く離れたどこかではなく、ここに、私たちの中におられ、神であり救世主であるイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)への信仰、そして私たちの罪深く弱い手によって奇跡を行われるという信仰、この信仰は私たちの生活と私たちの希望の基盤である。この信仰は、人間の努力や勉強、読書だけを通じては得られない。この信仰は神の賜物(たまもの)であり、それは誰にでも与えられるというわけではない。読書をし哲学を学んで聖書のページを手早くめくる人たちがいるが、主は彼らに信仰をお与えにはならない。・・・従って、もしある人が信仰の賜物を受け取ったなら、その人は、それが神から来る賜物であることを覚えておくべきであろう」
イラリオン府主教はまた、神がおられ、そして神は慈しみ深いという確信だけにとどまらない信仰についても語った。
「信仰とは生き方であり、ある人の人生における神の臨在は、その人の振る舞い全体と、その生き方や祈り方に影響を及ぼすべきものである。・・・もしある人が信じても祈らなければ、それはその人の信仰が渇(かわ)いた、冷たい、そして純粋に知的なままであることを意味する。このような信仰は、その人生に影響を及ぼしたり、意味を持ってそれを満たしたりすることができない。従って、その人が祈りをもって神の御前に立ち、神の応答を聞く場合においてのみ、その人は神と交わりを持つようになり、それは他のいかなる形でも起こりえない」
「神とは、ある人たちが、この世界には善き力が働いていると言って考えるような、抽象的な原理ではない。確かに、そのような力は存在し、そして私たちはそれを神と呼ぶ。そして、神は力であるだけではなく、位格であり、そして位格としての神は、人格としての私たちと交わりを持ちたいと願っておられるのである。神は私たちが祈りをもって神に帰ることを待っておられるのであり、そしてもし私たちが祈りをもって何かを求めれば、主はご自身が約束された通り、私たちが求めるものを賜ってくださる」
イラリオン府主教はまた、主が私たちに賜った端的な規則としての祈りと断食について語った。
「私たちは毎日を祈りで始め、祈りで終えるべきである。私たちは自らが達成しなければならない一つ一つの務めの前に、神の恵みを求めて、神に祈るべきであり、そして私たちの一つ一つの歩みにおいて神の御旨による導きを受けるべきである。・・・私たちの信仰が表されるのは祈りと断食を通じてであり、それを通じて主はその恵みを受けるために私たちの魂を備えてくださるのである」
そして、説教の終わりに、イラリオン府主教は、世俗での人生において外科医であった聖パンテレイモンについて語った。
「しかし、彼は特別な医者である。彼は普通の医者では治療できない病を癒やす。私たちは祈りにおいて彼により頼み、そしてしばしば私たちの祈りを聞いてもらえることが分かるのだ」
「主が私たちにしっかりとした信仰と、ご自身の聖なる教会に対する忠順を賜るよう、主が私たちに祈ることを教えてくださり、断食の業を達成するのを助けてくださるよう、そして、もし病が私たちの体に降りかかることがあれば、私たちが主の慈しみによって、そして聖パンテレイモンのとりなしを通じて癒やされるよう、主に求めよう」