房総半島の南端、千葉県館山市の小高い丘の上。きれいに整備された林を抜け、館山の海を一望できるこの場所に着くと、大きくそびえ立つ石碑が見える。その姿は神々しくもあり、少し悲しげにも映る。石碑に彫られているのは、「噫(ああ)従軍慰安婦」の文字。「従軍慰安婦」であったことを告白した城田すず子さんが、館山市にある「かにた婦人の村」の創設者、深津文雄牧師に「慰霊塔」の建立を依頼。深津牧師が1年あまり熟考した後、「二度と繰り返してはならない事実の記憶」として建立した。
晩年をかにた婦人の村で過ごした城田さん。こうした日本人「慰安婦」は、旧日本軍が赴いた戦地の中の「慰安所」に少なからず存在したが、そのことを告白する女性は少ない。城田さんは、その壮絶な体験を『マリヤの賛歌』(日本基督教団出版局、1971年)にまとめている。
城田さんは1921年6月30日、東京の下町のパン屋の5人きょうだいの長女として生を受けた。働き者の母と優しい父。パン屋の経営も順調で、裕福な家庭で「おきゃんな下町娘だった」と著書の中で自身を表現している。
しかし、城田さんが14歳の時、母親が子宮外妊娠による手術中に急逝。ここから、人生の歯車が少しずつ狂い始める。働き者で、パン屋も家庭も切り盛りしていた母を亡くし、父は悲しみから癒えるのに時間がかかり、あっという間に経営は傾いた。店を追われ、家も追われた。お腹を空かせた弟や妹のために芸者屋をしている弁護士の家に、子守奉公に出ることになった。城田さん、17歳の冬だった。芸者の道へ進もうと考えていた城田さんだったが、芸者屋にも借金を作っていた父親の肩代わりをするため、体を売ることで借金を返す生活が始まった。
年頃の少女と同じように、近所の男性に恋心を寄せた時期でもあったが、汚れた体で二度と会うことはできまいと涙をのんだ。家族の借金を減らすため、横浜の遊郭で働いた後、台湾の戦地に「慰安婦」として渡ることに。「海軍御用」と掲げてあるその場所で、1日10人、15人の男たちの相手をさせられた。男たちが争って娘を取り合う様を、「獣と獣の闘いのようだった」と著している。
一時、帰国するが、再びサイパンの「慰安所」へ。戦況が悪化し、城田さんのいる島にも米軍が猛攻を仕掛け、「ここで私の人生も終わりか・・・」と諦めかけた時期もあったが、命からがら戦火を逃れた。そして、1945年8月15日、南国の密林の中で、敗戦の知らせを聞いた。
サイパンから引き揚げ船に乗った城田さんだったが、やっとの思いでたどり着いた母国の人々の目は、元「慰安婦」に冷酷な視線を投げ付けた。17歳で体を売ることを覚えた城田さんは、夜の世界で生きていくしか術がなかった。ヒロポン(薬物)も覚えた。薬を買うために借金もした。戦後、日本に残っていた米国の進駐軍の相手をしたり、全国の遊郭を渡り歩いたりした。
そんなある日、駅の売店で目にした『サンデー毎日』の誌上で、日本キリスト教婦人矯風会が運営する婦人保護施設「慈愛寮」を知った。「私の行くべき所は、ここだ!」と強く思った城田さんは、その足で東京の新宿区にある慈愛寮に向かった。
入寮が決まり、健康診断を受けると、「梅毒、重度の淋病(りんびょう)」が発見された。それまで体を酷使してきた結果であった。教会で礼拝もささげた。賛美歌の一つ一つ、聖句の一つ一つが城田さんの胸に刺さった。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(ルカ1:46)
この御言葉を目にした城田さんは、涙が止まらなかったという。
婦人科系の臓器を全て摘出しなければならないほどの病にかかり、手術を受ける前日、病床で受洗。その後、練馬区にある「ベテスダ奉仕女母の家」の婦人保護施設に入寮した。しかし、洗髪しようとバケツを持ち上げたときに背骨を骨折。満身創痍(そうい)だった体は、もうボロボロになっていたのだ。以来、寝たきりの生活となったが、1965年、館山市のかにた婦人の村の誕生と同時に入村。ここが終(つい)の棲家(すみか)となった。
終戦40年を迎えた頃、ベテスダ奉仕女母の家の創立者でもある深津牧師に宛てた手紙の中で、城田さんはこう訴えた。
「兵隊さんや民間人のことは、各地で祀(まつ)られるけど、中国、東南アジア、南洋諸島で、性の提供をさせられた娘たち、さんざん弄(もてあそ)ばれ、足手まといになると、放り出され、荒野をさまよい、凍りつく原野で飢え、野犬や狼(おおかみ)の餌になって土に帰っていった。軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。なんど兵隊の首をしめようと思ったかわからない。しかし、死ねばジャングルの穴に放り込まれ、親元に知らせる術もない。それを私は見たのです。この眼で。女の地獄を・・・。祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。どうか慰霊塔を建ててください。それを言えるのは、私だけです」
辱めを受け、戦争の裏側でひっそりとその生涯を終えた女性たちの「声なき声」を少しでも形にしようと、1985年、敷地内に慰霊碑を建立。現在でも、終戦記念日には、かにた婦人の村の職員、利用者たちが、この石碑の下に集まり、花と歌をささげている。
その後、城田さんは1993年3月3日、71年の波乱に満ちた人生に幕を閉じ、ようやくその苦しみから解放され、天国へと旅立っていった。
かにた婦人の村にある教会の納骨堂には、チャーミングなほほ笑みを浮かべる城田さんの遺影がある。その壮絶な人生からは想像ができないほど、穏やかで美しい笑顔だった。その瞳の奥に焼き付けられた「女の地獄」を、私たちは決して忘れてはいけない。どうか安らかに。