1945年8月6日、一発の巨大な原子爆弾によって多くの命が奪われた。その中に、当時、捕虜となって広島で収監されていた米兵がいた。米政府は、10人の米国人捕虜が広島で被爆死したことを公式に認めている。東京都在住のネイサン・ロングさんの大叔父(祖父の弟)で、伍長であったジョン・ロング・ジュニアさんもその一人だ。ネイサンさんに話を聞いた。
ネイサンさんは、キリスト教の宣教師として1967年に日本へ渡った両親の元、日本で生まれ育った。幼少期を「戦艦大和の故郷」としても有名な広島県呉市で過ごした。生まれも育ちも日本だというネイサンさんは、「顔、形は米国人ですが、心は日本人かな・・・。自分でもよく分かりません」と流暢(りゅうちょう)な日本語で話す。呉市で育ったことをどこか誇りに思い、少年時代は戦艦大和やゼロ戦の模型を作って遊んだ。近所には、戦時中、日本軍が使用していたと思われる砲台のようなものがあり、その中で友達と遊ぶのが楽しみだったという。かつて米軍機を迎撃するために使われた武器の中で、無邪気に遊ぶ金髪の少年の姿を想像すると、皮肉にも似たどこか不思議な神の導きを感じる。
1980年代に入り、NHKの記者から、大叔父が広島で被爆死した事実を聞かされた。ネイサンさんの父親は、顔色一つ変えず、その事実を淡々と受け止めた。そして、「ジョン叔父さんは、クリスチャンだったのかな? もし、クリスチャンだったら、今頃、御国にいるはず。それだけで十分」と話したという。一方、ネイサンさんは、もともと歴史に興味があり、ジョンさんについてさまざまな角度から調べ始めた。
「歴史研究家の森重昭さんとの出会いは、大きかったです。彼のおかげで、ジョン大叔父の足跡を追うことができました」と話す。森さんによると、ジョンさんは、被爆死する約2年前に入隊。1945年7月28日、27歳の時に、呉市に停泊していた日本軍の戦艦「榛名(はるな)」を攻撃中に、ジョンさんら9人が搭乗していたB24爆撃機は砲火を浴び、パラシュートで脱出。その中の数人が山口県の山中に落下した。現地の警察に捕まり、広島県にある捕虜収容所に連行された。
原爆が投下された後、混乱を極めた広島で米国人捕虜がさまよい歩く姿が確認されている。「米国人捕虜の姿を見たという方にも、お会いしました。顔や骨格を記憶をたどって説明してくださいました。恐らく、その方が見た米国人捕虜がジョン大叔父だと思います。彼によると、原爆投下後、その米国人は誰かによって足と手を柱のようなところに縛られ、殺されていたとのことでした。爆心地からも近かったので、もしかしたら、命からがらといった感じだったのかもしれません」とネイサンさんは話す。
「親族を殺された『日本』という国に恨みや憎しみはないか?」と聞くと、「それは、ありません。当時の米国は、日本と戦争することを選びました。日本も米国と戦うことを選んだ。それは、その当時の常識だったかもしれません。でも私は、今の時代を神様に生かされています。私は日本も米国も好きです。日本のために祈っているし、この地には神様の言葉を伝える伝道が必要だと感じています。だから、私は米国ではなく、日本に住んでいるのです」と語る。
しかし、ネイサンさんの父親が日本に宣教師として派遣されることが決まったとき、祖父は猛烈に反対したという。「私の祖父は、『弟が殺された国』と思っているわけです。日本のことが好きではありませんでした。しかし、クリスチャンであった祖母は、祖父のためにいつも祈っていました。もちろん、私の父も。父はその猛反対を押し切って、日本に来たのですが、祖父は一度も日本に会いに来ませんでした。それでも、最期を迎えるほんの少し前でしたが、イエス様を受け入れ、安らかに天国へ旅立ちました」と話す。
宣教師であるネイサンさんの父親は、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(Ⅰペテロ4:8)を、繰り返し子どもたちに話していたという。「この御言葉は、子どもの時から何度も聞かされていました。今になって、さらにまた深くこの御言葉を感じることがあります。全ての解決、全てのもの中で必要なものは『愛』です。私は、クリスチャンになっていなかったら、もしかしたら、日本という国を恨んでいたかもしれない。しかし、神様の愛によって私は赦(ゆる)され、この国が大好きになりました。神様の導きは本当に不思議です。でも、完璧なのです」と笑顔で話した。
ジョンさんの遺影は現在、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録されている。