キング牧師が1968年ではなく、1958年に殺されたとしたら――。それは実際あり得ることだった。
先週末、米国はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の生涯を記念し、1968年4月4日にテネシー州メンフィスで暗殺されたキング牧師をしのび悼んだ。キング牧師は志半ばにして殺害された。それは、家族、教会、また米国社会にとって大きな悲劇であった。
キング牧師が、もう10年早く殺されていたとしたら、悲劇の度合いはどれほど大きかっただろうか。それは彼が公民権運動を率いるようになる前の話だ。
1958年9月20日、精神的な病を抱えたアフリカ系米国人女性イゾラ・ウェア・キュリーさんがキング牧師の肩を刺した。当時29歳だったキング牧師は、ニューヨーク市のデパートで、モンゴメリーでのバス・ボイコットについてつづった新刊『自由への大いなる歩み』にサインをしていた。凶器はレターオープナーで、キング牧師の大動脈のすぐそばまで達しており、取り除くには何時間もの繊細な手術を必要とした。医師によると、キング牧師が刺されたあと、くしゃみ一つでもしていたら死んでいただろうとのことだった。
想像してみよう。もしキング牧師の命が、自由が到着する前にばかげた行いによって奪われていたとしたら。ランチ・カウンターでの座り込みの前だったら。「バーミンガム刑務所からの手紙」、「私には夢がある」スピーチ、そして暗殺される前の晩にメンフィスで行われた「私は山の頂上に上った」スピーチの前だったら。
キング牧師のメンフィスでのスピーチは、不可解なほど予知的であった。間もなく自分の人生が暴力的に終わってしまうという不吉な予感を持っていたようなものである。キング牧師は自分の声明に対する脅迫と、安全についての支援者からの懸念に言及した。そして、このように述べた。
「あらゆる人と同様に、私も長生きしたいものです。長生きできる人はできるでしょう。しかし、私は今はそのことについて考えていません。私はただ神の意志を行いたいのです。そして神は私に、山の頂上に上ることを許してくださいました。私は見渡しました。約束の地を見ました。私は皆さんと共にそこには行けないでしょう。しかし私は今夜、皆さんに知ってもらいたいのです。私たちは一つの民族として、約束の地に到達できるのです!」
想像してみよう。キング牧師が1958年に殺されていたとしたら。1958年から1968年にかけての激動の10年間に、キング牧師の存在と指導力がなければ、米国の歴史はどれほど変わっていただろうか。キング牧師のいない公民権運動を想像するには、まず彼がただとてつもなく重要な人物だったということを理解することから始まる。キング牧師の存在と、その非暴力へのコミットメントがなければ、法の下での人種間の平等に関して米国がたどってきた道のりには、さらに多くの血が流されたことだろう。そして、苦さと不信のしこりがさらに根深く残ったことだろう。
全ての米国人は、黒人も白人も、キング牧師が1958年の暗殺未遂事件を生き延びたこと、またそれ故に、全ての人が自由と解放を享受するための米国のたゆまない歩みの指導者として、不可欠かつ唯一無二の存在として歴史を歩んでいくことができたことに感謝すべきだ。
キング牧師と彼の非暴力的手段によって変化をもたらすという道徳的コミットメントは、米国人への特別な贈り物だった。そのような指導者――19世紀でいえばリンカーン大統領、20世紀でいえばキング牧師――はいつも神から与えられ、国家への神の祝福のしるしだ。そのような指導者がいなくなると、私たちは国として、神の祝福ではなく裁きを受けることになりかねない。私たちは皆、私たちの社会にいまだに残る人種差別を克服するために前進する中で、神が憐れみによってそのような指導者を与えてくださるように祈るべきである。
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リチャード・D・ランド(Richard D. Land)
1946年生まれ。米プロテスタント最大教派の南部バプテスト連盟の倫理宗教自由委員会委員長を1988年から2013年まで務める。米連邦政府の諮問機関である米国際宗教自由委員会(USCIRF)の委員に2001年、当時のジョージ・W・ブッシュ米大統領から任命され、以後約10年にわたって同委員を務めた。2007年には、客員教授を務めている南部バプテスト神学校がリチャード・ランド文化参加センターを設立。この他、全米放送のラジオ番組「Richard Land Live!」のホストとして2002年から2012年まで出演した。現在、米南部福音主義神学校校長、米クリスチャンポスト紙編集長。