日本キリスト教会東京告白教会(東京都世田谷区)は12日、上北沢区民センター(同)で信教の自由を守る記念講演会を開催した。講師を務めた同教会前牧師の渡辺信夫氏(91)は、「思想の自由を奪還するために」と題して講演し、「ちゃんと自分で信ずることができることを真理として考えていく、そういうことをやっていくこと、これが自由の実質的確立になる」と語った。
渡辺氏はまず、靖国神社の問題に対する日本のキリスト教の取り組みの歴史的背景について、「日本のキリスト教は靖国神社を国営化するという企てが出た時に、一番早く反対の声を上げました。それは日本ではキリスト教が戦前押さえつけられていて、そしてキリスト教を押さえつけていく一つの道具として靖国神社という宗教施設があったという、そういう痛い経験を持っているから、昔の靖国神社と同じものを作っていくということに当然反対したわけです」と振り返り、「日本のキリスト教はこの問題について、かつては一番鋭敏な感覚を持っていて、反対の声を一番初めに上げて、そして初期においては日本国内の靖国反対の運動をリードしておりました」と述べた。
しかし、「今では必ずしもそうではないということを私たちは憂いているわけです」と渡辺氏。「意見としては、靖国国営、あるいは靖国神社そのものに反対なんだという意見がクリスチャンの中では大部分だと思います。けれどもこの反対のために、体を張っても闘っていくという人は、いま少ないみたいですね。なぜかというと、そういう強固な意志を持っている人たちは、みんな歳を取ってしまったわけです。強固な意志を持ってはいるけれども、体が動かないという方もおられる。そういうことで、運動としては盛り上がらなくなってしまいました。この熱意を次の世代に伝えていく、そのことをキリスト教は教会の中でしっかりやってこなかった。そのことは非常に残念なこと、また申し訳なかったこと。これは年配の者の責任だと思っております」と語った。
渡辺氏は、「私は、先の司会者の紹介の中にも91歳というご紹介がありましたけれども、割合年を取っている人間ですけれども、年を取っているけれども、生きている限りはこのことを叫び続けなければならないと思ってまだやってるわけです」と言い、「そのような私たちのこの気持ちに同調してくださる方がおられるということは、ありがたいことだと思っております」と語った。
「今、われわれの目についていることとして、思想の自由がなくなってしまっている。今日、政権が指導をとって、政権の思想に反するような行動はどんどん抑圧しているわけですね。それに対して報道陣の中でも勇敢に闘っている人もありますし、また内閣ににらまれると具合悪いというんで論調を低めているところもあります。とにかく表に出てくることとしてそういうことがありますが、そうでないこと、政府の方の発言とは一応別で民間が自主規制をして、政府が目指していく方向に反するような行事は行わないようにしようという、自主規制がかなりありますよね。自主規制だから、どこかから政治的圧力がかかったとか、権力による圧力がかかったというのでない形をとって、しかし実際には思想的空白を生み出す。そういうことなんです。今もう起こっております」と、渡辺氏は指摘した。
しかし、「もう思想の自由が日本で死に絶えた、というふうに言ってしまっては、それは明らかに間違いです」と渡辺氏は付け加えた。
「弾圧があっても、正しいことは正しいんだから語っていくという人が生きている限りは、この国に思想の自由はあるんだということができると思いますが、語る人がだんだん少なくなってきている。少なくなっても一人でも語る人がいるなら、まだ思想の自由は残っているということができると思いますが、私は最後のその一人になっても叫ぶつもりですが、もうこの歳ではあとそう続きません。ですから、どうか私がもう立てなくなった後、代わって立つ人が一人でもいいから出てくるようにお願いしたいと思います」と、渡辺氏はより若い世代に訴えた。
「私は、思想の自由の奪還というのは、それほど厳粛な決意を決めて当たるというところまで行かなくても、ごく当たり前、自分のものだから自分のところに取り返す、そういう考えで良いのだと思います。すなわち、思想の自由は日本国憲法が約束していることです。約束というよりむしろ保障してくれる」と渡辺氏は言い、「簡単に言うならば、日本国憲法をしっかり守っていくようになりましょうと、そういうことを言うのと内容的には同じことになると思います」と言い換えた。
さらに渡辺氏は、第二次世界大戦中に学徒出陣で旧日本海軍に加わった沖縄での自らの戦争体験を回想し、「それまで戦争で死ぬということは意味のあることなんだ、人のために死ぬのだから意味があることなんだと、そういうふうに考えていたんですけれども、魚雷が当たって船は沈んで、そして助けにくる人も多分いない、全部そこで黒潮に乗って流されていくということになる。それまで意味のある死であるというふうに考えていたのは、ウソだったということが分かりました。これは国のために死ぬことなんだとか、人のために死ぬことなんだという理屈が付いていたわけですけれども、その理屈というのは実は誰かが考えたと思うんですね。実物はそんなことじゃない、悲惨であって、そして全くむなしいこと。それを別のところの人が頭をひねって理屈付けをして、こういう意味のあることなんだから死ぬことをいとってはならないというふうに教えた。私はその教えを真に受けて、本気で信じたわけです。そこで自分が自分の思想を持っていないのに、人から教えられて、それを自分の思想のように思ってしまった。そこでそのように教え込んだ人が責任を問われるということになるのかもしれませんけれど、私は、私に違ったことを教えた人の責任を問うということはあんまり言っておりません。だまされた自分の愚かさの方に責任がある、そういうふうに感じました」と語った。
「ですから、だまされないで自分の思想をちゃんと持つ人間になる。そこで私は自分の考えを自分で持つ人間になろうと決めた」と渡辺氏は述べた。
しかし、戦争中は、四六時中周りを見張っていなければ、どこから弾が飛んでくるか分からない状況で、自分の考えを自分で持つ、それだけ思索をしていく、自分が考えたことをもう一度練り直す、といった時間もなく、またそれだけの戦力もなかったため、静かにものを考えるということはできなかったという。
「ですから人から考えを吹き込まれて、それが自分の考えであるかのように思い込んで、自分の死を意味付ける、そういうことはやめようとしたわけですけども、そして確かにそこでやめたんですけども、これから自分が出直すということをすぐに始めることはできませんでした」と振り返った。
そして、渡辺氏は戦争が終わってからの自らの生き方について次のように回想した。
「自分の思想は自分が学び取っていくもので、人から注入されるものであってはならないと考えました。しかももう一つ、私が海防艦に勤務している間に、もうこれでおしまいだと覚悟を決めなければならない時が2、3回あったわけですが、死を免れて生きて帰ってきた。死を決意して覚悟するということを自分では決めたけれども、自分の決意を超えた力があって、その自分の決意を超えた力が、私に生きて帰ることを定めている。それならばその力、その意志、つまり神様の意志ですが、それに従って生きていくほかない、そういうふうに考えて生きて帰ってきた時からずっと、自分のために生きるのではなくて、私を生かしているこの力に従って生きていく、それが自分の生きる道なのだというふうに考えて、その通り一応生きてきたと思います」
しかしその一方で、戦後、日本国憲法が次第に空洞化していったことに、渡辺氏も気が付いていたという。警察予備隊ができたのをはじめとして、じわじわと日本の再軍備が進んできた。
「そういうことに対しては一つ一つ反対していかなければなりませんでした。実際に反対しきれないほどたくさんのことが出てきて、平和のために全てをささげて闘わなければならないんだと、自分に言って聞かせたものでありながら、不徹底なところがたくさんあったことは申し訳ないことだと思います」と、渡辺氏は述べた。
その上で、「そういう中で、私が考えてその考えがまだちゃんとまとめきれていないのですけれども、方法としてはどうすれば本当に抵抗をすることができるのかということです。抵抗に関しては私はかなり勉強しました。本も書いているわけですが、それにしては、私は実際の抵抗というのは本当にしたのかどうか? ある意味ではしたことになる、そういう行動は取ってはいますが、これまで抵抗した多くの人々は、その抵抗のために命を捨てているわけです。私は抵抗をして、それで監獄に入れられたことがない、逮捕されたこともないわけです。口では言っていた。それも一つの抵抗ではあったと思いますけれども、口で言ってる抵抗によって、差し止めなければならない悪の力をくだくことはできていなかったわけです。今や抵抗ということを本気で考えて取り組まなければいけない時に来ていると思います」と結んだ。
講演後の質疑応答の中で渡辺氏は、「自分の罪を罪として認める、そこにわれわれの自分自身の思想の確立があるのだと思います。ですから、日本の教会は思想的に今も非常に弱いですね。自分で考えることがなくて、よその国から本を取り寄せて横書きであるものを縦に直して、それを読んで、それによって信仰を持ったということにしておく、そういう流れがまだあるんですね。だから今、日本の国がまた非常な危機になっている時に、教会がきちんと立ち上がっていないという憂いを述べさせていただきましたけれども、そういう弱さは改めていかなければならないと思います」と渡辺氏は語った。
「今日、私、思想の自由ということを掲げておりながら、思想の自由の内容については何も言ってないのですけれども、実は私がそこでどういうふうに考えたか、人の考えを丸呑みにする、借り物にする、そういうことでは思想ではないんだということに気がついたというような話をいくつも織り込んできたわけですけれども、ちゃんと自分で信ずることができることを真理として考えていく、そういうことをやっていくこと、これが自由の実質的確立になると言いたかったわけです」と渡辺氏はまとめた。