キリシタン大名、高山右近(1552~1615)の殉教400年を記念するミサが1日、金沢市広坂のカトリック金沢教会で行われた。高山右近は現在、日本のカトリック教会が最高位の「聖人」に次ぐ「福者」に認められるよう、ローマ教皇庁に働き掛けており、今年にも認定されるのではないかと、期待が高まっているという。中日新聞が伝えた。
右近は摂津国(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の高山友照(洗礼名ダリヨ)とマリア(洗礼名、実名や出自は不明)の間に嫡男として生を受けた。当時の高山家は三好氏の重臣松永久秀に従って大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城としていた。右近は12歳の頃に洗礼を受け、ジュスト(正義の人)と名乗る。
その後、織田信長の登場により、畿内の状況は一変。それまで支配していた三好氏が急速に衰退し、戦いが激化する。この頃の戦いで右近は首を半分ほど切られる重症を追うが、奇跡的に回復。神への信頼を一層強めたという。
その後、荒木村重に仕えることになったが、村重は信長に謀反を起こし、右近は村重と信長の間で板ばさみとなる。そこでイエズス会のオルガンティノ神父に助言を求めたところ、「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」と言われ、信長に従った。信長は生涯一度も自ら同盟などの約束を破らなかったと言われている。
本能寺の変の後は秀吉に従い、信長に謀反を起こした明智光秀との戦いで先鋒を務めるなど武功も認められるが、「どこか『清(きよし)の病い』がある」と称されるほど非常に真面目な人物だったと伝えられている。
また、右近は人徳の人としても知られ、ルイス・フロイスの『日本史』によると、高槻城下である村人が亡くなったとき、当時は賎民の仕事であった棺桶を担ぐ仕事を率先して引き受け、領民を感動させたという。
昨年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、生田斗真が右近役を演じて好評を博した。このドラマの主人公、黒田官兵衛や蒲生氏郷、細川忠興(細川ガラシャの夫)や前田利家など、戦国のビッグネームたちを伝道したことでも伝えられている。また、建築や茶道などの芸術にも類まれなる才能を発揮した。
1587年のバテレン追放令後、信仰を守ることと引き換えに領地と財産を全て捨てることを選んだときには、前田利家から領内に招かれ、「加賀百万石」と称される金沢の町の発展の基礎を作った。
しかし1614年、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去。フィリピン・マニラへ渡ったが、船旅の疲れや慣れない気候により、右近はすぐに病を患い、翌年1615年に64年の生涯を終えた。
その死が殉教と捉えられ、彼にゆかりのある金沢で行われたのが冒頭のミサ。中日新聞は、右近を「競争より人生や命を大切した」と紹介。「激しい競争原理にさらされる今日こそ、追放の身を選択した右近の真価が深い共感をもって理解されると確信している」と、石川県立美術館で8日まで開かれている展示「高山右近とその時代」を企画した同館学芸第一課担当課長の村瀬博春さんの話を伝えている。