関東聖化交友会(関東JHA)主催「第22回聖化大会」2日目の15日、主講師のスティーブン・シーモンズ氏が午後6時半からの集会で講演し、信仰の先祖アブラハムに語られた「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」(創世記17:1)との神の御言葉は、現代を生きる私たちにも同じく語られる神の御言葉であり、全能の神の力を信頼してその招きに応じる決意をするよう会衆に呼び掛けた。
「全き者であれ」(1)とは、何を意味するのか。シーモンズ氏は、この箇所のヘブル語の意味から、「心を尽くす」という言葉が「全き」の意味に一番近いものであると説いた。主イエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」との神の掟を第一の戒めとしている(マタイ22:37、38)。ここで神はアブラハムに、半分ではなくすべての「心を尽くして」ご自分を愛するようにと求めておられた。
シーモンズ氏は、どのようにして「心を尽くして神を愛する」者となるかを、アブラハムの生涯を通して学ぶことができると語った。
神がアブラハムに語られた「わたしの前を歩み」(1)との呼び掛けの言葉は、全能の神がまさに今、生きて働いておられ、有限な人間と共に歩まれるというダイナミックな表現である。神はアブラハムの生涯を通して働かれ、2つのことを教えようとされた。シーモンズ氏は、この2つの教えが、神と共に歩む信仰者であればその生涯で必ず取り扱わなければならないものであることを示した。
神はアブラハムを「大いなる国民」とすると約束された(創世記12:2)。だが、アブラハムが99歳になっても、妻サラには子どもがなかった。そこで2人は、当時の慣例に従い、妻の女奴隷ハガルを通して息子イシュマエルをもうけた。
そこで神はもう一度アブラハムの前に現れ、いまは90歳になった妻サラに「ひとりの男の子を与えよう」(19)と約束された。
だが、アブラハムはこれを喜ばなかった。神の約束によって与えられようとしている子を求めず、自分たちのやり方でもうけた息子イシュマエルに固執してしまった。ここでアブラハムは、神が最良のものを与えようと約束されているのに、神を信頼せず、「大いなる国民」とするとの神の約束を自分の力で行おうとした。
シーモンズ氏は、このアブラハムと同じように私たちも「神の御心を行いたいと願うが、自分のやり方で、自分の力でしたいと願っている姿はないか」と会衆に問いかけた。
イサクが生まれた後、神は、アブラハムに息子イシュマエルを手放すようお命じになった。愛する息子を手放すことはとても辛いことではあるが、神はアブラハムに、自分の力で得たセカンド(2番目の)ベストを離れて、神がお与えになるベスト(1番)を選ぶようにと願っておられた。これが第1の教えである。
さらにその後、神はアブラハムに、一人息子イサクを全焼のいけにえとしてささげるようお命じになる(創世記22:2)。ここで神は、ご自分がアブラハムに与えた最善のものを、アブラハム自身が手放すことを求めておられる。それはアブラハムが、いつしか神から与えられた最高のものを神ご自身にかえて心の中心におく者とならず、「心を尽くして」神を愛する信仰者となるための神の試練であった。神が与えられたベスト(1番)をさえ神にささげること、これが2番目の教えである。
アブラハムは、神から「わたしの前を歩み、全き者であれ」と命じられたとき、神の御言葉に従う決意はあったが、その先のことについては分からなかっただろう。シーモンズ氏は、「それでいいのです。心配することはありません」と語り、神が求めておられるのは、「神に従うという決意」であることを強調した。その上で、「全能の神が私たちと共におられます。主の命令に従うとき、神が私たちを聖めの道へと導いてくださるのです」と語った。
神の御言葉に従い、心を尽くして主を愛する人生を歩むことを決意した聖徒たちは講演後、講師の呼びかけに応じ、講壇の前へと集まった。その数は100人を超えた。