大阪・梅田駅から阪急で1駅、阪急中津駅から徒歩3分の線路沿いに小さな私設の博物館がある。「南蛮文化館」だ。1968年に地元に住む北村芳郎氏が設立した、日本と欧州の交流に影響を与えた南蛮美術品を収集し展示する私設の美術館だ。毎年5月と11月の2カ月間だけ開館している。今年の秋のオープンに合わせて訪ねた。
2階建ての館内を、館長で学芸員の矢野孝子さん自らが案内してくれた。まず最初に目に飛び込んでくるのは、「南蛮屏風」(重要文化財)。縦1.6mで6枚の屏風が2つ、計12枚にわたって、日本を訪れた南蛮船や南蛮商人、イエズス会の宣教師、南蛮寺(教会堂)の様子が、紙本金地着彩という技法で描かれている。落款がないが、作者は織田信長や豊臣秀吉に仕えた狩野派の絵師・狩野永徳の子・光信の一門の作と考えられているという。
当時の街の様子や服装、風俗が細密に描かれ、さらに南蛮寺の中で、聖書の教えを説き、祈りをささげる宣教師の姿も詳しく描かれている。
その壮麗さに目を奪われながら、どこか懐かしいと思っていると、矢野さんが教えてくれた。「この南蛮屏風は、よく中学や高校の日本史の教科書に写真で載っているんですよ」。そうそう、そうだった。高校生のときに教科書で見たあの屏風。それが目の前にあると思うと感動もひとしおだ。
よく見ると、商人たちの隣に黒人の姿も描かれている。「今年は、大河ドラマ『黒田官兵衛』のブームで南蛮文化への興味も高まってるのか、織田信長に家臣として仕えた黒人、弥助をテーマに、テレビのクイズ番組『世界不思議発見』が取材で来て、この屏風を元に解説をしたんですよ」と矢野さんは説明する。
16世紀の大航海時代、ポルトガルがアフリカのモザンビークから黒人を奴隷として集める中、日本にも多くの黒人が連れてこられたという。ルイス・フロイスの書簡などによれば、織田信長は連れてこられた弥助を見て、初めは肌が黒いことを信じず、着物を脱がせて何度も洗わせたが肌はより一層黒く光ったことに驚き、武士として取り立て、いつも身近に置いたという。弥助もこの南蛮屏風に描かれるようにして日本にやって来たのかも、と思わず安土桃山の時代に思いをはせてしまう。
館内には他にも、京都の市中郊外の景色や、祭礼、行事を描いた「洛中洛外図屏風」も。非常に細かく描かれており、眺めれば眺めるほど発見がある。三十三間堂のそばで、煙草を吸う人の姿もある。煙草も南蛮渡来。芥川龍之介の『煙草と悪魔』という小説があったことを思い出す。この他、当時の世界地図を描いた屏風や、甲冑など見所は多い。
「開館期間中は10時の開館から夕方まで、一日見ていくお客様もいます。だから、ソファを置いてゆっくり見ていただけるようにしているんです」と矢野さんは話す。
続いて1階には、主にキリスト教関連の展示物が展示されている。特に目に付くのは、「悲しみのマリア像」と呼ばれる油彩画だ。暗褐色の背景に聖母マリアが少し頭をかしげた姿で描かれている。伏目がちに目をうっすらとつぶり、息子イエスの処刑の悲しみに静かにくれているようで胸を打たれる。
この絵画は、福井県で代々藩医を勤めた旧家の土蔵の土壁に竹の筒に収められていたのが、銅板聖画などキリシタン関係品と共に発見されたという。作者は不明だが、恐らく16世紀にイタリアの画家によって描かれたと推測されているという。果たしてこの絵を土壁に隠した人はどこでこの絵を手に入れ、どんな思いで壁に埋め込んだのだろうか。
隣にある「聖ペテロ画像」も面白い。鍵を持ったペテロが聖書を読んでいる姿が描かれているが、この絵が所蔵されていた千葉県船橋市の覚王寺では古くから「出山釈迦如来絵像」と呼ばれていたという。つまり釈迦如来を描いた仏画として所蔵されていたということらしい。果たして本当に釈迦として信じられていたのか、それとも江戸時代の厳しいキリシタン禁制下、この絵に何かを感じた仏僧が、あえて釈迦如来の絵とすることで秘かに残してきたのだろうか。思わず歴史ロマンが膨らんでしまう。
その他、竹花鳥模様の螺鈿(らでん)が美しいイエズス会士が使った書見台や、洋式箪笥、細川ガラシャが使っていたと伝えられる十字架、聖母子像など、展示品を眺めていると、遠くキリシタン文化が咲き誇った時代にひたってしまう。2階立ての小さな美術館だが、充実の展示品だ。
なぜこれだけの美術品を集め、美術館を作ったのだろう。館長の矢野孝子さんに伺った。
「南蛮美術館は私の父が1968年にオープンしたんです。父・北村芳郎は1920年生まれで、戦前、東京大学の学生のとき、国史(日本史)を専攻していて、教授から東西交流についての講義を受けて強く興味を持ったのがきっかけだったそうです。その後、太平洋戦争中は学徒動員で満州に将校として赴任、終戦で復員したら、この辺りは空襲で焼け野原になっていて、両親も亡くなっていたそうです。そこで不動産業を始めたそうです。それで戦後の大変な時代も少し落ち着いた1960年代ぐらいから、少しずつ南蛮美術の品々を集めるようになって、私設の美術館としてオープンしたんです」
矢野さんは、妹との二人姉妹。父の芳郎さんはとても厳しい父親だったそうだ。美術品が出たと聞くと、両親が揃って地方に出かけ、姉妹2人で家で留守番をしたこともしばしばだったとか。そして父・芳郎さんから美術館のために学芸員資格を取れと言われれ、大学では美術を専攻、姉妹2人とも学芸員資格を取ったという。
「20代のころは、開館期間はいつも学芸員として美術館にいるように言われてね。当時はまだ年頃の女の子だったから、甲冑とか昔の美術品に囲まれて一日受付に座っているのは、いやなときもありましたけどね」と、矢野さんは当時を懐かしそうに思い出して笑う。
しかし開館から47年間、貴重な思い出も多かったという。1970年の大阪万博のときには、ローマ教皇の代理として、当時のパウロ・マネラ枢機卿と田口芳五郎枢機卿が訪れ、バチカンから「ナイト」の勲章をもらったことも。
また種子島にポルトガル船が漂流し、日本に初めて鉄砲とキリスト教が伝来した1543年から450年を迎えた1993年、日本とポルトガルの交流450周年を記念し、ポルトガル政府の要望で、展示品を貸し出し、当時のマリオ・ソアレス大統領と面会し感謝状をもらったこともあるという。
貴重な美術品だけに貸し出し依頼も多く、来年2015年は長崎で教会群の世界遺産申請に合わせて美術展が開かれるため、貸し出しの準備をしているところだという。
毎年開館期間は5月と11月の2カ月間のみ。今年の5月は200人以上の入館者が訪れた。毎年必ず訪れる熱心なファンも多いそうだ。
「京都の90代の女性で『悲しみのマリア様に会いたくて』と毎年必ず見に来られる方がいますね。高山右近の大ファンで、毎年来られて高山右近の兜(かぶと)と書状の前で、笛を吹いていく男性もいます。1人でも2人でも待っている人がいる間は続けたい」と矢野さんは話す。
しかし、公設ではなく私設の美術館であるため、施設や美術品の維持管理はなかなか大変だという。美術品の修復も許可申請が必要で、補助金も出ないため全て自前でまかなっているそうだ。気になる南蛮美術館の将来についてはどうなのだろう。気になって聞いてみた。
「甥(おい)がいるんです。まだ20代なので美術館には関わっていないけど、とてもおじいちゃんっ子で幼いころから館内で、展示品の手入れを手伝っていたほどだから、たぶん甥の代までは大丈夫かな」
ちなみに、矢野さんも父の芳郎さんもクリスチャンではなく、代々の熱心な浄土真宗の信徒だとか。「でも、念仏のときにはときどき、”南無アーメン”と唱えるんです」。矢野さんはいたずらっぽく微笑んだ。
大阪の街中、いつまでも末永く続いてほしい、小さくて豪華でアットホームな美術館だ。
■ 南蛮文化館
住所:大阪市北区中津6−2-18(阪急中津駅から徒歩3分)
電話:06・6451・9998
入館料:大人800円、大学・高校生600円、中学生500円(小学生は同伴者がいれば無料)
開館時間:午前10時~16時
開館日:5月1日~31日、11月1日~30日(月曜日閉館)
HP:http://www.namban.jp/namban/