大変大きな景教碑が愛知県春日井市の日本景教研究会本部(川口一彦代表)に建つとは誰もが思っていなかった。見ていると威風堂々としていて大変立派、日々感動している。その昔、唐の時代の781年、大秦会堂に建った時、信者たちは大きな感動と神への賛美に溢れていたと思う。
資金不足と石材店が見つからない中、設置はまだ先かと思っていた矢先、ついに時が来た。資金支援者が起こされ、探していた石材店も見つかり相談したところ、可能とのことで、資金不足にもかかわらず残金は与えられると信じて建設にとりかかり、ついに3日、念願の除幕式となった。
式典日前日は大雨でどうなるかと考えていたが、天候にも恵まれ、東は東北や関東から、西は中国地方や関西はじめ地元から多くの参加もあって大変盛大な式典となった。神に感謝し、感動と再出発の一日だった。
景教碑は高校世界史の書物でも紹介されるほど有名だが、日本では明治時代に高野山奥の院と京都大学総合博物館(石膏作)に建ち、日本景教研究会本部に建つのは三番目となる。景教碑は西安の教会堂敷地に建立されたことから、教会堂に建てることが出来たのは感慨無量だ。
大秦景教流行中国碑とは、ユダヤ(大秦)からイエスの教え(景教)を中国に伝えた(流行)碑と理解している(注参照)。碑の大きさや文字の鮮明さを比べれば、本部碑は西安碑に最も近いもので、製作過程で中国の石材店が西安碑の拓本から写して字彫りし、上と下の動物のデザインもそっくりに製作されており、石匠の努力が伺える。
石は中国から名古屋港に船便で運ばれて大型クレーンで据え付けられた。基礎の上に置かれた土台の重さは地震対策を考え4・8トン、下部のビシ(龍の九番目の子で亀ではない)は1トン、中央の碑陽は1・8トン、上部の龍は600キロで相当な重量と大きさの碑が、住宅街にある教会堂の敷地に建った。参加者はじめ道行く人も大変驚き、今も驚いている。
除幕式の参加者は地域の方も多く、地域に溶け込み、地の塩となるため、祝辞は地元の有志に依頼した。全国書道団体の代表、市文化財保護審議委員、市議会議員、葬儀社社長らはじめ牧師やキリスト教関係者も多数参加された。
筆者が主宰する書道の子どもたちが除幕をし、祝辞にも熱心に耳を傾けていた。
除幕後、景教碑を説明すると、驚く方や初めて聞いたとか、多くの参加者が理解を深める良いチャンスでもあった。碑が日本宣教の一助として用いられるよう願っている。
碑を見ていると、本当に立派の一言だ。ぜひ一度見に来てほしい。事前に連絡を入れておけば解説付きで見学できる。拓本は有料頒布している。問い合わせは、川口(電話:090・3955・7955、春日井市柏井町7-2-6)まで。
今年発売された改訂新装版『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(川口一彦編著、イーグレープ刊)は、碑文や景教全般、諸宗教を知る上でも価値ある良書でお薦めしたい。
※ 注:景教と景教碑について
景教は7世紀、シルクロードでペルシャや中央アジアを拠点として唐代中国に宣教に来た東方教会。彼らは自らを東方の景衆・景教と称していた。宣教師が唐の太宗皇帝に接見したのが635年、宣教師と随行者たちは書殿で3年にわたり聖書を翻訳し太宗皇帝に献上、聖書を伝えたと碑文にある。碑文は三部構成で、第一部は聖書の教理(天地の創造、初人アダムとエバの存在、娑殫(サタン)による人間の罪と堕落、メシアの降誕と救い、聖霊によって教会が生れ、唐土まで来たこと)を述べ、第二部は景教と歴代皇帝との良い関係について述べ、第三部は一人の指導者の美しい隣人愛について述べている。70名の指導者の名前が側面にも刻まれ、シリア語が彫られてあるのも大変珍しい碑である。804年に唐に渡った遣唐使の空海はこの碑を見たのではとの噂も広まった。なぜなら空海の言葉や儀式や教えが聖書と似ている部分があるからだ。
(レポート:日本景教研究会代表 川口一彦)