CP:都市というのは聖書においても大きな存在感を持っています。教会プランティングにおいて都市というものの意義は何でしょう?
ストームズ氏:意義、あるいは影響力、というのがキーワードですね。例えば、使徒パウロが福音を宣べ伝えようと思ったとき、彼は都市に行くことを非常に重要視していました。他の使徒たちも都市に教会を次々に立てました。理由の一つは文化的影響力が大きいことで、また単に人口密度が高いからです。多くの人々に伝えたいと思えば、多くの人々がいるところに行くでしょう。今でもその状況は同じです。ますます多くの人々が都市に引越ししていますし、統計を見れば、将来的には人口の70パーセント、あるいはもっと多くの人々が――それが具体的に何人であれ――都市に住むことになります。教会がそれを深刻に捉えるのは重要なことだと思います。
CP:エレミア書29章7節で、神は自分たちが流浪の身となって住んでいる都市の平安を求めるようにイスラエル人たちに命じます。「その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」と。そのことと、どのようなコミュニティに置かれた場合であれ、今日のクリスチャンが自分たちのいる場所についてポジティブに考えることと、どのように関係していますか?
ストームズ氏:「流浪」という言葉は明らかにネガティブな響きを持っています。イスラエルの人々は流浪の民として自分たちの故郷を離れ、異国の地に住むことになり、我々はそこから「流浪」のイメージを得ています。それには今日のわれわれに当てはまる意味も含まれています。特にわれわれアメリカ人にとっては。アメリカでは、過去何世代かにわたり、教会は田舎、小さな町、あるいは郊外で最大の力を発揮してきましたが、都市においてはそれ程の力を持っていませんでした。ですから、都市に住むクリスチャンとしては、時に実際流浪の民のような気持ちになることもあります。都市を皆にとって住みやすい場所にするような教会を立ち上げたいということは、私も強く思っています。ブルックリンの新しい教会の一つは、ブルックリン・コミュニティ・サービスという組織と協力して、法的な援助や職業訓練を人々に提供しています。それはコミュニティに奉仕し援助するすばらしい方法です。
CP:教会プランティングのネガティブな面を見たときしばしば問題に挙がるのが、新しい牧師がまるで全ての答えを引っさげてきたかのように現れるのを見て、そのコミュニティに長く存続している他の教会が憤慨することです。あるいはコミュニティについての情報共有の場に招かれないといって、古くからある教会が放置され、無視されたように感じることもあります。
ストームズ氏:理想的には、コミュニティに新しく来る人というのは、謙虚な態度で来るべきなのです。これから学習し、話を聴きます、という姿勢で来るべきです。 イエスはたとえ話の中で、食卓の上座に座るのではなく、一番端の席に座るように教えています。最終的に中心に座らせてもらうようにすればよいのです。我々の教会指導者たちには都市にはそのような謙虚な姿勢で入り、よく聴き、よく学習し、奉仕して、信頼を勝ち取るようにしてもらいたいと思います。新しい教会を既存の教会にとっても利益となる方法で創設することは可能です。新しい教会はしばしばパイオニアとなって、既に確立された教会が乗り気でないことも試みます。限界を少し押し進めることができます。既にある教会も新しい教会から学び、案をいくつか採用することができます。中には――そして実際、統計的な証拠もありますが――新しい教会のおかげでコミュニティ内の全ての教会の質が上がると言う人もいます。
CP:キリスト教、あるいは宗教がアメリカで低迷していることについてですが、新しい教会コミュニティを創設することがどのようにこの問題の対処に役立つでしょうか?
ストームズ氏: 新しい教会の創設は、福音を伝える最も効果的な手段だと 言う人はたくさんいると思います。新しいコミュニティを始めると、最初から一部の人にだけ所属意識があるということはありませんから、教会に来たいと思っている人や教会に行こうという友人の招待を受けたいと思っている人にとっては、社会的な壁も少なく、新しい教会コミュニティに入ることができ、その一部になれるのです。これは一つの手段だと思います。変化を起こすことができる唯一の手段とまではいかないかもしれませんが。ともかくわれわれ自身は新しい教会を創設する仕事に携わっているのですから、これはとても重要なことだと思っていますし、実際これがアメリカそして世界中に伝道するため神様がお使いになる手段の一つだと思います。
■ 教会開拓はアメリカ・キリスト教復興の鍵となりえるか?:(1)(2)