思いがけない出会いから私との交際が始まり、主に祈り求めながら数カ月が過ぎた。ちょうどそのころ、彼女の妹のキヨ子さんの結婚が決まった。田舎の習慣では、姉が後に残るわけにはいかない。矢のような催促がくるようになった。私にも結婚の意思はあったが、まだ数年後と思っていたので、慌ててしまった。何せ当時の私は、ほんとのスカンピン、ないと言ったら文字どおり一円もない貧乏牧師だった。学院にいるので食べるには事欠かないが、東淀川へ行く交通費さえままならないのだ。
父や兄に相談すると、猛烈に反対された。先輩の牧師たちも口をそろえて、まだ早過ぎると言う。私自身も内心では二十三歳で結婚は早いかなと考えていた。彼女はなおさら辛かったと思う。
そんな四面楚歌の中、強力な味方が出現し、持ち前の実行力で、私に決断させてくれた。それはすでに二年前に同じ二十三歳で結婚し、日の出の勢いで伝道牧会に携わっていた先輩の村上好伸牧師だった。彼の奥様は学院時代の私の同級生だった。二人の祈りと勧めも功を奏して、すべての反対を振り切って、私たちは結婚することを決めた。
私たちが決断すると、村上好伸牧師はさっそく彼女の実家がある鹿児島県出水市に私を連れて行った。彼女の家でも大騒ぎだった。あんなに優しい娘が婚約を解消した時も驚いたが、若いハンサムな(?)青年に「サダ子さんを私にください。きっと幸せにしますから」と顔を真っ赤にして頭を下げられ、そばにいた青年にも「私が保証しますので、ぜひ二人の結婚を許してください」とキッパリと宣言するように言われて、彼女の両親は開いた口がふさがらないほど驚いてしまった。田舎の朴訥な両親は、「サダ子がそれで幸せになるなら・・・」とかろうじて答える以外にことばがなかった。
その時、彼女から「これを父に渡してください。何も言わないで、ただ渡すだけにしてください」と一つの包みを預かっていた。頼まれた物が何だったのか、実はこの原稿を書きながら、結婚三十三年目にして初めて知り、自らのうかつさに驚いた。何とそれは彼女が用意した結納金だったのだ。すでに妹は結納も済み、結婚式の日取りも決まっていた。父親は私が手渡した結納金があまりに小額なのに驚き、この青年は貧乏な牧師だと強く確信し、心配になったという。しかし娘の今までの堅実な歩みに、それとなく感服していたので、結納金をそのまま娘に祝いとして贈ったとのことだ。書きながらも顔が赤くなる。私は非常識なまでに純粋な青年だったのだ。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。