あなたがたより先に
マルコの福音書16章1節~9節
[1]序
今回の箇所・マルコ16章1~9節には、鋭く対立する二つの流れが一体となっている様を見ます。
一つは、「マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメ」(1節)が直面している困難です。その困難を、マルコの福音書を最初に読んだ人々が直面している困窮(こんきゅう)や戸惑(とまど)に対する深い理解と同情を心に秘めながら、マルコは描いています。
マルコの福音書の最初の読者の現実に対するマルコ自身の深い思いがいかに大切か、マルコの福音書を読み進めながら、私たちはしばしば気づかされてきました。
そして最初の読み手に対する思いは、今、ここでマルコの福音書を読む私たちに対するものでもあると自覚してきたのです。このような今までの経験を踏まえながら、今回、マルコの福音書の最後の部分を私たちは味わいます。
もう一つは、その現実のただ中で宣言される、主イエスの復活の事実です。
復活の事実と弟子の関係、そうです、復活のイエスとマルコの福音書の最初の読者の関係が本当に大切です。
[2]直面している困難
(1)3節、「彼女たちは、『墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか』とみなで話し合っていた」。
①石の大きさ、「あれほど大きな石」(4節)。彼女たちの力で解決できるような代物ではなかったのです。
②「他人の力を頼りにし、依頼心によって行動する女性の心理」との、この聖句の意味として公にされている理解。しかしこれは、聖句の意味と言うより、1973年の時点における女性観の一端を示しているものではないか。
③事実を知りながらも、なお進む姿。
(2)5節、「彼女たちは驚いた」←→6節、「青年は言った。『驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です』」。
(3)8節、「彼女たちはふるえてわれを失っていたので墓から出て逃げ去った。だれにも何も言わなかった。おそろしかったのである」(前田護郎訳)。
参照、イスラエルの民の荒野の40年間、それは民の罪の歴史。しかし同時に神の恵みの歴史。
あの詩篇119篇の最後の節・176節、「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません」。
[3]「あの方はよみがえられました」
(1)「ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」
①「ところが」なのです。
②「すでに」の恵み。その恵みを認められない、認めようとしない私たち。しかし神の恵みは、「すでに」、ここになのです。
③鍵(かぎ)は、「目をあげて見ると」なのです。マルコの用例、誰が目をあげて見るのか。
6章41節、主イエス。
7章34節、主イエス。
8章24節、目の不自由な人
10章51、52節、バルテマイ。
(2)復活の宣言
女たちは、復活を見たのでなく、復活の宣言を聞いたのです。キリスト信仰は、何よりも「聞く」が出発です(参照・ロ-マ10章14節)。
(3)「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます」(7節)
①マルコに見る、「先に行く」の用例。
6章45節
10章32節(主イエス)
11章9節
14章28節(主イエス)
②「そこでお会いできます」(7節)、何のために。
[4]結び
(1)「あなたがたより先に」、時間について、場所についても。
(2)今一度、聖歌733番を。
1.ゲッセマネの夜の きみをしのばば
うきもなやみも などで避くべき
おのれをすてて きみにしたがわん
2.ピラトの庭の きみをしのばば
はじもなわめも などかこつべき
言い訳せずに きみにしたがわん
3.カルバリやまの きみをしのばば
わが苦しみは もののかずかは
十字架をおいて きみにしたがわん
4.はかよりいでし きみをしのばば
あだをもしをも などおそるべき
勝どきあげて きみにしたがわん
◇
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。