ツロとガリラヤ
マルコの福音書7章24節~37節
[1]序
今回の箇所を、24節の「ツロ」、31節の「ガリラヤ」と二つの地名に注意し、前半24~30節をツロでの出来事、後半31~37節をガリラヤ湖の地域での出来事と分け、それぞれについて見て行きます。
[2]ツロで、「そうまで言うのですか」(24~30節)
まず7章1~21節との対比が目立ちます。そこではパリサイ人や律法学者たちが、自分たちの習慣に聴き従わない弟子たち、そして主イエスを批判する姿を見て来ました。
また18節に見る弟子たちの鈍さや頑(かたく)なさの背景の中で、24節以下でスロ・フェニキヤの女の信仰をマルコは描きます。
(1)ツロ
異邦人の地。主イエスが村から村、町から町へ宣教の旅行を続ける中で、イスラエルの外に出られたのは、この箇所だけです。
登場人物について、「ギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれ」(26節)と、ユダヤ人の中のユダヤ人と自負するパリサイ人・律法学者ではなく、また選ばれた弟子たちでもなく、この異邦の女がとマルコは力を込めて紹介している思いが伝わります。
(2)話の筋
25節、深刻な必要を持つ女が登場、「イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した」のです。
26節、登場人物の紹介の後、「自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた」と、主イエスに願い続ける彼女の姿をマルコは再度強調し描きます。
このように、ひたすら主イエスに向かう彼女の姿が段階を踏んで浮き彫りにされています。
「イエスのことを聞き」(25節)
↓
「その(主イエス)の足もとにひれ伏し」(25節)
↓
「イエスに願い続けた」(26節)
彼女の行為を一つ一つ指し示した後に、主イエスと女の直接の対話をマルコは描きます。
27節、主イエス、「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と答えられたのに対して、28節、スロ・フェニキヤの女の答えを、「しかし、女は答えて言った。『主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずはいただきます』」と、マルコは記しています。
その結果は29節、主イエス、「そうまで言うのですか」と女の信仰を認めるのです。参照マタイ15章28節、「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように』」。
30節、他方、娘の悪霊からの解き放ちが、「女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊は出ていた」と告げられています。
(3)中心点
主イエスは、このスロ・フェニキヤの女のどこを、なぜ「そうまで言うのですか」(29節)と認めなさったのでしょうか。幾つかの点を見たいのです。
①その第一は、彼女が「主よ。そのとおりです」と、主イエスのことばに従い自分自身を認めている点です。自分の感情やその他の判断基準ではなく、主イエスのことばを、たとえそれが困難で受け入れるのがやさしくないように見えても、主イエスご自身に対する深い信頼の中で、異邦人としての自分の立場をわきまえています。
②その二点目は、彼女が重荷を担い、その責任に耐え、そこから決して逃げだそうとせず、必要を訴え続ける信仰の歩みの着実さを見ます。
③第三は、主イエスに「願い続けた」(26節)ところに、彼女の信仰の熱心を見ます。
このように、一人の主イエスに従う忠実な女性の姿を私たちは、この箇所に見るのです。
[3]ガリラヤ湖の地域で、「この方のなさったことは、みなすばらしい」(31~37節)
ツロの地域で、主イエスは御業をなし給うた後、ガリラヤ湖の地域においても御業をなさいます。
(1)「そこで、その人だけを群衆の中から連れ出し」(33節)
主イエスは、群衆全体を見渡すと同時に、その一人一人に目を注いでくださいます。今まさに、人々の労を通しですが、一人の人に焦点を合わせ、御業を展開なさるのです。
(2)「天を見上げ、深く嘆息して」(34節)
「深く嘆息して」と訳されていることばは、聖霊ご自身がキリスト者・教会の中で御業を進めておられる事実を描く際に用いられています。
「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら」(ローマ8章23節)
「私たちはこの幕屋にあってうめき」(Ⅱコリント5章2節)
「確かにこの幕屋にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています」(Ⅱコリント5章4節)
(3)「その人に『エパタ』すなわち、『開け』と言われた」
「彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった」(35節)だけでなく、その人の存在全体が開かれたものとされたのです。
さらに、「この方のなさったことは、みなすばらしい」と人々が主イエスに対して言うとき、彼らにおいても「エパタ」の恵みが現実になっています。
[4]結び
(1)地方ではなく、地域
ツロにおいて、またガリラヤ湖の地域において、主イエスの御業が行われる様を見てきました。そうです。各地域で主イエスの御業はなされるのです。
私どもは、ともすれば、中央と地方という枠で考えてしまいます。その場合の中央は、それぞれの判断によるもので、言わば自称中央です。その中央から見て地方だと言われ続けるといつの間にか、自分たちのところを中央に対する地方と見てしまいがちです。しかしツロ、ガリラヤ湖の地域とそれぞれの地域で、主の御業はなされて行きます。中央と地方の関係でなく、それぞれの地域が、主の御前で、それぞれ尊い場所で、独自の役割を委ねられています。
(2)直向(ひたむ)きなキリスト信仰
私たちは、今回、スロ・フェニキヤの女性の主イエスの言葉に従いつつ、直向きに主イエスに対して歩む姿に教え励まされます。
(3)エパタ、私たちも
私たちも、「エパタ」と心開かれる者とされる必要があります。みことばを通し主の恵みに導かれながら、一歩一歩と。
私たちの世界が、どのように混沌として見えても、本来は、「見よ。それは非常に良かった」(創世記1章31節)と、創造の恵みを覚える信仰の目を開かれる必要があります。そして主イエスがこの混沌とした世界において、救いの善き御業をなし続けておられる事実を認める恵みを与えられています。エパタと私たちに仰せくださる主イエスの恵みを覚え、ローマ人への手紙15章20、21節をお読みします。
「このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。『彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる』」
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。