―「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネの福音書3章16節)
「人生は、クローズアップでみれば悲劇だが、ロングショットでみれば喜劇である」― アメリカの喜劇役者、チャールズ・チャップリンのことばである。チャップリンは本当は、悲劇俳優になりたかった。彼の喜劇のベースは、多くは悲劇である。本当は悲劇なのに、ピエロのように、面白可笑しく演じるのである。結局、ある一つの事実や体験を、悲劇とみるか、喜劇とみるかは、その人の考え方によると言うのである。
「人生は、それを感じる人間にとっては悲劇であるが、それを考える人間にとっては喜劇である」― フランスのモラリスト、ジャン・ド・ラ・ブリュイエールのことばである。ある体験を感情では悲劇だと感じざるを得ないが、同じ体験を思考では喜劇として考えることができる。彼もまた、人生は考え方によって喜劇となると語っている。
「人生すべて塞翁が馬」― 中国の有名な故事である。ここにもまた、人生を悲劇とみるか、喜劇とみるかは、人の考え方次第であると言っている。悲劇のところで区切れば悲劇だが、喜劇のところで区切れば喜劇である。
しかし、本当に、人生の悲劇と喜劇は、人の考え方だけで決まるものであろうか? ある人の人生の本当の悲劇と喜劇は、神の視点から判断されるべきことではないだろうか? 聖書はなんと言っているのだろうか?
「人生は、イエスを信じれば喜劇であるが、イエスを信じなければ悲劇である」― これは神のことばによる絶対的な真実であって、人の考え方による相対的な評価ではない。イエスを信じれば、病気になろうが、破産しようが、離婚しようが、裁判に敗訴しようが、死刑になろうが、それらはことごとく、永遠の命への道程である。イエスを信じる者にとっては、人生とは限りなく絶対的な喜劇である。
けれども、イエスを信じなければ、健康でいようが、裕福でいようが、幸せな家族を持とうが、ノーベル賞を受賞しようが、裁判に勝訴しようが、長寿を楽しもうが、それらはことごとく、永遠の滅びへの道程である。イエスを信じない者にとっては、人生とは限りなく絶対的な悲劇である。
イエスを信じるのか、それとも、イエスを信じないのか。これこそが、あなたの人生を悲劇とするか、それとも、喜劇とするかの、唯一のファクターである。
「イエスを信じる」とは、ただ洗礼を受けたとか、毎週教会に通っているとか、一生懸命に伝道しているとか、貧しい人たちを助けているとか、そういう外形的、形式的なことではないと思う。「その人の心の奥底(霊の次元)で、万物の創造主、全能者なる愛の神・イエスと出会い、そのお方と家族のような関係で結ばれていることである」と私は思う。
ならば、私たちは、イエスを本気で心底から信じることに、もっともっと、自分の人生のフォーカスを合わせるべきではないだろうか?
― イエスは言われた、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイの福音書16章26節)
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佐々木満男(ささき・みつお)
国際弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。インターナショナルVIPクラブ(東京大学)顧問、ラブ・クリエーション(創造科学普及運動)会長。
■外部リンク:【ブログ】アブラハムささきの「ドントウォリー!」