ああ、人の群がっていたこの町は
哀歌1章1~11節
「私は主に向かい、声をあげて叫びます。
声をあげ、主にあわれみを請います。
私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、
私の苦しみを御前に言い表します。」(詩篇142篇1、2節)
[1]序
今回なぜ哀歌を取り上げるのか、またどのような切り口から味わいたいのか、哀歌を実際に味わいつつ、少しづつ明らかになれば幸いです。
しかし今の時点でも、今日に生かされているキリスト者・教会として、私は何をどのように悲しみ、どのような哀歌を歌うのか、この課題を意識しながら、哀歌を読み進めたいとの願いは共有できます。そしてこの願いは以下の思いへとつながります。
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(マタイ5章4節)と主イエスは語られました。聖書が言う意味で悲しみ・哀しみを知らなければ、聖書の言う慰めも経験することができない。本当に喜びの福音を心に刻まれた者の心から、哀歌が歌われるのではないか。
[2]「ああ、人の群がっていたこの町は」(1~6節)
紀元前586年、強力なバビロン軍が、神の都と信じられていたエルサレムを包囲したのです。そればかりでなく城壁は破壊され、ついに陥落。神殿は汚され、その宝はバビロンヘ持ち運ばれ、その上、民の指導的な人々もバビロン捕囚へ(3節、「ユダは悩みと多くの労役のうちに/捕らえ移された」)。この悲惨な現実から、哀歌の詩人は目をそらすことなく正面から深くとらえ、事態の根元に触れていきます。
(1)「この町」(エルサレム)の姿、エルサレム陥落を境に、それ以前と以後を鋭く対比させ、陥落がいかにひどいものであるかを描きます。
①「人の群がっていたこの町」←→「ひとり寂しくすわっている」
②「国々の中で大いなる者」←→「やもめのよう」
③「諸州のうちの女王」←→「苦役に服した」
今と昔、時の流れ・歴史の中で物事を見る。それは、物事を正しく、深く、豊かに知るために大切です。その営みを示す、一つの実例。
(2)「彼女の愛する者」(2節)、「その友」(2節)、「愛する者たち」(19節)などは、バビロン軍により崩壊する以前、ユダが同盟関係を結んだ国々を指しています。彼らは裏切り、敵となったのです。
特に、「だれも慰めてくれない(2、9、16、17節)と強調しています。ここでの「慰め」は、口先だけの慰めでも、単なる同情でもなく、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(マタイ5章4節)と主イエスが言われる「慰め」です。人と同じ立場に立ち、希望を与え、真に生かす慰めを、求め期待すべきでない相手に求め、より深い失望、さらには絶望に陥る悲劇を、私たちはここにも見ます。
(3)5節後半、「(なぜなら)彼女の多くのそむきの罪のために、/主が彼女を悩ましたのだ」。哀歌の詩人は、エルサレムが破れ、神殿が汚される姿を正面から見つめているだけはありません。さらにこの悲劇が起きた真の原因が何か、根元まで掘り下げています。参照8節、「エルサレムは罪に罪を重ねて、/汚らわしいものとなった」。
イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解き放ち給う恵みの神。イスラエルが恵みに応答するように、恵みの神は、祝福の約束と呪いの警告をもって語りかけ、恵みの契約を結ばれたのです。参照申命記28章43、44節。
「そむきの罪」とは、その恵みの契約に背を向けることを意味します。度重なる預言者たちの警告に耳を貸さず、ついにエルサレム崩壊を招いてしまったのです。
1章5節、14節、22節と哀歌の詩人が三度繰り返し強調している、「そむきの罪」。これこそ、エルサレムが崩れ去り、神殿が破壊、民の指導者がバビロン捕囚となってしまっている中で、直面しなければならない本当の問題です。
[3]仇のあざ笑いの中で主への叫び(7~11節)
(1)「仇はその破滅を見てあざ笑う」(7節)
「その民が仇の手によって倒れ」た事実だけでなく、その事実があざ笑いの種となるのです。これにより、エルサレムはなお深く傷つきます。
(2)二つの「主よ」、9節後半と11節後半
1~11節までは、今まで見て来たように、「この町」(1節)、「シオン」(4節)、「エルサレム」(7節)と、エルサレムは、3人称単数で描かれています。しかし、9節後半と11節後半、カギカッコの部分では、1人称で直接主なる神に呼びかけています。
エレミヤ10章1~25節に、その代表的な実例を見る、生ける創造者なる神と空しい偶像との鋭い対比。
①「主よ。私の悩みを顧みてください」(9節)
②「主よ。私が、卑しい女になり果てたのを/よく見てください」(11節)
3人称と1人称、それぞれを用いて描いている両方が、哀しみの深さを示すため大切です。12~22節でシオンが1人称で語り、直接苦悩を訴えている部分は次回味わいます。
[4]結び
(1)昔と今のように、哀歌の詩人は、 時の流れや歴史の中で物事を見ています。これは、主の御手の中で物事を見ることです。参照詩篇31篇15節。
時の流れ・歴史を大切にして物事を見るため、大切なときの物差しを私たちは与えられています。
①その一つは聖書を貫き、教会の歴史を貫くものです。天地創造から主イエスのご再臨にいたる、神がご統治なさる万物の歴史。その背景の中で、アブラハムからダビデまで、約千年、ダビデから主イエスまで約千年。参照マタイ1章1節。そして主イエスから私たちまで、二千年。私たちのように小さな存在が、少なくとも四千年の歴史を視野に入れて物事を見る恵み。
②もう一つは、沖縄、日本の歴史の物差しです。この場合も、琉球処分、1945年、1972年など、エルサレム崩壊の場合のように、特別な出来事の持つ意味を繰り返し考えながら、その物差しで物事を見ていく営み。
③さらに私たちの人生の物差し(詩篇90篇10節)。
(2)「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(マタイ5章4節)と主イエスが語られている通り、聖書が言う意味での悲しみを知らなければ、聖書の言う慰めも経験することができない。本当に喜びの福音を心に刻まれた者の心から、哀歌が歌われるのです。
(3)ルカ13章33~35節、19章41~44節
主イエスの「ああ、エルサレム」。
イザヤ53章3節、「悲しみの人」主イエス。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。