天の父が、求める人たちに
ルカの福音書11章5~13節
[1]序
今回もルカの福音書を味わいます。主イエスの祈りについての教えです。1~4節の箇所が「主のいのり」を通し何を祈るか祈りの内容を中心にしているのに対して、今回の箇所はいかに祈るか、またどなたに祈るかをはっきり自覚し確信に満たされて祈ることについてであり、「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と実に大切な主イエスの勧めを結びとしています。
[2]「あくまで頼み続けるなら」(5~10節)
(1)これはルカの福音書固有のたとえです。このたとえでは、真夜中に友人を起こさねばならない事態、戸は堅く閉じられている、友人は寝入っている子供を起こす事なく起き上がり戸を開けることができないなど、願い求めをなす人が直面する困難やさまたげを強調しています。
(2)だれでもというのではなく、こういう事態でも助けてくれる友人を尋ねたのです。ひるまずに頼み続けるなら、「必要な物」(8節)を手に入れることができると教えています。
信頼と確信に満ちた願いであると同時に、3節の「日ごとの糧」と同様、「必要な物」(8節)とあるように、慎しみにも満ちた願いです。
(3)命令と約束(9節)
人間の間でさえ、「必要な物」のためのひるまない願いは満たされるのです。しかしここで主イエスが弟子たち、キリスト者・教会に教えているのは、いつくしみ深い父なる神への願いです。父なる神のご真実がはっきり示されるところでは、同時にこれ程のお方に求め続けて行く人間の責任も問われます。
[3]「天の父が求める人たちに」(11~13節)
(1)「あなたがたも」、「なおのこと」(11~13節前半)、小から大を推論。父なる神の恵みが、父なる神に祈るものの確信を生み出すのです。
(2)「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(13節)
祈りは、父なる神が私たちに約束なさっている最高の賜物である聖霊ご自身について向けられて行くのです。
聖霊ご自身が私たちに注がれるのは、何のためでしょうか。ロ-マ人への手紙8章26、27節を特に注意したいのです。祈る者が聖霊を受け、聖霊ご自身の導きに導かれるとき、祈る者は神の御心を教えられ神の御心を祈る者とされて行くのです。
キリスト者・教会の地上での歩み、それは聖霊ご自身の導きを受けつつ父なる神の御旨を祈り、神のことばを聞いて行う(サマリヤ人に見るように良き行いをなす)恵みを無にしない歩みです。与えられた自由意志をもって神の御心を行う決心をし、自らの意志を神の御心に一致させる生涯を進む、主イエスの家族の一員とされている歩みです。
[4]結び
私たちは、「主の祈り」を通して何を祈るかを教えられてきました。実に内容豊かな、また私たちに無くてはならない私たちの必要を含むきめ細かい祈りを祈るべく招かれています。
しかも私たちがどのように祈るべきかさえ主イエスは教えておられます。そうです、祈り続けることです。どなたに対して祈っているのかをよくわきまえて信頼に満たされ確信に堅く立ち祈るのです。ルカの福音書11章13節と共鳴する、ローマ8章32節をお読みします。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」
必要なもの一切について確信をもって祈ることが許されています。しかもそれだけではないのです。聖霊ご自身を与えられ、聖霊ご自身の導きを受けつつ神の御心を祈ることが許されているのです。祈らざるを得ないではありませんか。教会がすべての人の祈りの家となるように祈祷会を大切にせざるを得ないのです。Ⅱコリント6章3節以下にみるパウロが証している生活・生涯を送ることを許されている者として。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。