安息日の主
ルカの福音書6章1節~11節
[1]序
今回はルカの福音書6章1~11節を味わいます。マルコ2章23~28節、マタイ12章1~8節を参照。
[2]安息日に麦の穂を摘んで
(1)パリサイ人たちの攻撃
麦畑の穂を摘んで一時的に空腹を満たすこと自体は律法で許されていたのです(申命記23章25節)。パリサイ人たちはそのことを安息日になした事実を問題にしています。穂を摘む行為を一種の刈り入れと見、安息日に刈り入れ・働きをしたと見なします。
聖書そのものの教えでなく、それに付随する言い伝えに縛られているのです。
(2)主イエスの答え
主イエスは聖書そのものを指し示しています。Ⅰサムエル21章2節以下の記事。ここに記されている出来事を安息日の出来事と当時の人々は理解していたと言われます。
様々な言い伝えではなく聖書そのものに聞く必要があります。律法の中心は何かを見失わないように注意する必要があります。
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません」(マタイ23章23節)
主なる神の愛に答える義務は、どのように果たされるのでしょうか。言い伝えに基づく儀式を細かく守ろうとすることによってではなく。ローマ人への手紙12章1、2節に明示する基本線です。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」
(3)中心は、5節。「人の子は、安息日の主」。主イエスの権威。
[3]安息日に右手のなえた人をいやす
(1)パリサイ人たちの動機
「イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった」(7節)。
(2)主イエスの行為と教え
安息日は、主なる神に仕えるために定められたもの。善を行ない、いのちを救うなど積極的に。隣人に対する愛を拒絶することの問題。
[4]結び
(1)主イエスこそ安息日の主。主イエスの復活により、週のはじめの日が主の日として、私たちの礼拝の生活・生涯の大切な基盤であり節目です。
(2)復活の主に従う歩み。律法に示された道、その中心を大切に。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。