【CJC=東京】教皇フランシスコは6月2日午後5時から、バチカン(ローマ教皇庁)のサンピエトロ大聖堂で「聖体の祝日」に合わせた1時間のミサを行った。バチカンは初の試みとして、世界各地の信者に同時刻に祈りをささげるよう呼び掛けていた。
サンピエトロ大聖堂でのミサはテレビ中継されたが、クローズアップされた教皇の横顔は、頬の肉が垂れ下がった生気のない疲れた感じがまざまざと映し出されていた。
教皇が着座して約3カ月近く、歴代教皇とは対照的な行動は、世界のマスメディアの関心を今も惹きつけている。このほど明らかになった夏の行事で、最も注目されたのは避暑地カステルガンドルフォにある夏の離宮へは7月14日、正午の聖母への祈りの集いに行くだけで、「青年の日」に出席するためブラジルを訪問する以外は、バチカンで過ごすということ。
さらに6月7日、バチカンで修道会イエズス会経営の学校に通う子どもたちと交流して「教皇にはなりたくなかった」と言い、子どもたちや関係者の笑いを誘った。子どもの1人に、教皇になりたかったか、と尋ねられ「自分のことを大事に思っている人は教皇になろうなんて考えない」と冗談めかして語ったものだが、メディアの目を意識しての発言となると、単に冗談と聞き過ごすことは出来ない。
教皇は、バチカンのサンピエトロ広場に面した専用住居には入らず、コンクラーベの際に使用したバチカン内の宿舎『サン・マルタ館』で他の聖職者らと寝泊まりを続けている。その理由を「独りになりたくない。性格的な理由だ」と答えた。前例を破って公開されたフランシスコの住居は、201号室で、同館に106あるスイートルームの一つ。コンクラーベでフランシスコが宿泊していた際に割り振られた部屋よりは家具調度が少し上等といった程度のものという。
フランシスコは教皇の指輪を金から銀の金メッキに変えた。十字架はそれまで使用してきた鉄の十字架を使用し、ヨハネパウロ2世の時にはかれなくなった伝統の赤い靴は、ベネディクト16世が復活させたが、それもやめて従来の黒い靴を履いている。
選出以降、一貫して「ローマ司教」の呼称を用い、さらに教皇紋章の装飾のある伝統的な教皇の椅子の使用をやめて、バチカンで賓客用などに供される肘掛け椅子に教皇の椅子を取り換えた。また、ミサではラテン語ではなくイタリア語を用いている。
第二バチカン公会議以来、教皇自身、また周辺で変わったことは多い。地上の王権を象徴するかのような三重宝冠が消え、人に担がせて移動した教皇の椅子が消えた。教皇の赤い靴もフランシスコがはかないとなると、これで永久に消えることになろう。こう見ると、宮殿内の教皇居宅を出たことも、夏の離宮を棄てたことも、後戻りのできない改革の一つと見られる。
しかし、真の教会改革、バチカン改革はこれからで、バチカン内外にそれを阻止する動きがあることは、あからさまに報じられないにしても確か。「聖体の祝日」ミサで写し撮られた疲労顔が語るものは、底が深そうだ。