背後におられる神の権威によって
山谷の教会は八坪足らずだし、ホームレスの人たちが出入りするから、それこそイエス様のお生まれになった馬小屋のような臭いがしているかも知れません。でも、ここはどんなに狭くても、神の臨在なさる聖堂なのだということを信徒たちにわきまえさせ、けじめを付けさせています。礼拝が終わるまでは、会衆に水一滴も飲ませません。まして、酒、たばこは絶対許しません。
アルコール依存症で肝硬変を起こし、酒を止めなければ後一カ月の命と宣告されてもなお、「分かっちゃいるけど、止められない」などとうそぶいて酒を飲み続ける人もいます。
「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ腐れ魂」という狂歌もあります。そういう人間の姿を通して、その内に巣食い人間を縛り付けている原罪というものの根深さを、つくづく思わされるのです。
神の御子であるイエス様は、そういう暗黒の地上に、いと高き天から降り、人となっておいで下さいました。そして、たった一杯の酒に勝つことのできない人間の惨めさ、悩み、悲しみを、嫌というほど知り尽くされたのです。そのイエス様に心を明け渡し、信仰をもって問題を委ねれば、罪の根は抜き取られ、勝利させていただけます。自分の力で乗り越えようとするから、失敗するのです。
いつまで経っても酒が止められない人には、無我夢中で怒鳴りつけ、力一杯手の平で背中を叩き続けました。
「その酒のために、あなたのたった一度しかない人生が駄目になっていくのよ。イエス様を信じなさい。信じれば、酒から救われるのよ!」
叩かれる方は体が痛いが、叩く方は心が痛いです。私は叩きながら泣き、泣きながら叩きました。そんな私の姿が、1992年にNHK総合テレビで放映されました。それを見たある方は、「あんな恐ろしい女の先生、いるのかしら」とびっくりしてしまい、わざわざ山谷に見に来られました。そして、私があんまり優しいので二度びっくりしたというわけでした。
会堂前の道端で、私に分かるまいと思ってこっそりたばこを吸っている人がいました。私は目ざとく見つけて、「こらーっ、○○」と苗字を呼び捨てにして、怒鳴りつけてから言いました。
「この聖なる御堂を、たばこの煙で汚されてたまるか!」
そして、その人のたばこを手で叩き落とし、襟首を掴んで頬に5回ほど往復ビンタを加えました。
「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(レビ記19・2)
聖書にこう示されているように、罪は罪として罰するお方が厳然とおられるのです。クリスチャンは、この世と少しでも妥協してはいけません。その厳しさがなかったら、教会は地の塩の役目が果たせません。
「愛」という言葉は巷に氾濫しています。しかし本当に愛そうと思ったら、生易しいことではありません。
この人を、何とかして救いたい。その愛が激情となってほとばしり出る。これが奇跡を起こすキリストの愛です。福音(良い知らせ)とは、聖霊によって注がれるこのような愛の力です。今こそキリストの激情的な愛を待ち望まなければなりません。愛には、厳しさと優しさの両面が必要です。溺愛は愛ではありません。時には厳しく、捨て身になって訓戒し、御言葉をもってたしなめ、叱責する。これが本当の愛ではないでしょうか。
「主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子をむちで打たれるのである」(ヘブル12・6)
この愛の鞭が、山谷の教会員たちの人生を変えたのです。時には、暴れ狂っている人に捨て身で向き合い、27年間信徒を訓練してきました。捨て身になっている者には、誰も敵いません。まして、万軍の主がともにいて下さる者にはなおさらです。
伝道と牧会(信徒教育)は、聖霊様の与える神の権威なしには全うできません。主は目に見えない聖霊様という電波を通して、私がなすべきことを一つ一つ啓示なさり、天からの悟りを与え、振り回して用いて下さいます。何百人もの人たちが集まってくる集会で、誰がどこの道からやって来て、どの辺に座ったのかまで教えて下さるようになりました。
ある時、礼拝にいつも来るはずの兄弟が休みました。翌週、私は聖霊様に導かれるまま、その兄弟をこう諭しました。
「兄弟っ。あんた、こないだ日曜礼拝さぼって図書館の椅子に座ってたでしょ」
「ありゃー、先生見てたんですか」
私の言い方も、傑作でした。
「あったりまえよ。それくらい分からなくて牧師が務まると思うの? 人の目はだませても、神様と私の目はだませないよ。私の目は千里眼だからね」
それ以来、「森本先生は、俺たちの行動や心の中まで全部お見通しだ」という噂が流れたらしいです。それで、私が一言、「こらっ、静かになさい」と言えば、「あれは人間の言葉ではない。神様が言わせている」ということになりました。皆は、私の背後におられる神の権威を見ているので、どんな暴れん坊でも言うことを聞くようになりました。
教会員を教育するうえでも、聖霊様がその都度、必要な知恵を下さいました。ある寒い日、370名もの人々が震えながら集会にやって来たのを見て、献品していただいてあった新品の下着セットを配ることにしました。それも、ただ配るのではなく、彼らに聖句を暗唱させてから配るのです。この知恵も聖霊様が下さいました。
370名、一人一人の顔を確認する暇もなく、次々と下着を手渡していくうちに、聖霊様が心にこんなことを教えて下さいました。
―この人は、さっき渡した人だ―
そこで、私はその人を呼び止めました。
「ちょっと、あなた。さっき渡したはずよ」
しかし彼は、「いや、もらってません」と言います。そこで押し問答が始まりました。聖霊様は、この男性がもらった下着をジャンパーの中に隠して、すぐまた列の後ろに並び直したことまで教えてくれました。
「もし2回もらったことが分かったら、ただじゃおかないよ」
私はそう言ってから、彼のジャンパーのファスナーをさっと開けました。案の定、下着セットが出てきました。問答無用。「バシ、バシッ」と往復ビンタを加えてから言いました。
「こらっ。なんで嘘をつく。人をだませても、神様と私はだませないからね」
それ以来、私をだます人はいなくなりました。うどん給食の時、後から受け取る人の丼には、どうしても肉が入っていないことが多いです。そんな時にも、聖霊様の知恵をいただいてこう話します。
「皆さん、残り物には福がある。お肉は鍋の底に沈んでる!」
皆、大笑いです。こう言っておかないと、大衆の心理は収まらないのです。
教会員には、献金も奨励してきました。
「日々の食べ物もお金もない人々に、そんなことまで言うのか」と思われるでしょうか。たとえ、1円でも5円でもいい。どんなにどん底生活であれ、今日一日尊い命を生かされていることを、神に感謝する気持ちを献金に込めるように教えたいからです。その感謝は、彼ら自身に喜びとなって返ってきます。その喜びが力となって、日々の悩みや悪霊の攻撃に勝利する祝福の基となるのです。
山谷の教会堂は、30人も座れば一杯です。日曜礼拝には400人、水曜祈祷会には200人以上が集まってきます。入りきれない人々は、会堂前の道路に並んでもらいます。その人々が集会開始2時間前くらいから、隣の町内まで200メートルもの長蛇の列となります。交通の妨げにならないように、近所の住民たちに迷惑を掛けないようにと、皆黙々と座って待っているのです。雨の日も、風の日も、雪の日も。傘がなくて濡れねずみになっても、身じろぎもせずに。
このような信徒は、日本にいるでしょうか。いや、世界中捜しても見当たらないのではないでしょうか。雪の朝、礼拝が始まる前に私は皆にこう問い掛けます。
「夕べ、雪の中で野宿した人は?」
99パーセントの人が手を挙げるのを、胸が詰まる思いで見やりながら、励ましの言葉を掛けます。
「偉いっ! 皆さんは偉いですよ。私がこの世で一番尊敬しているのはあなた方です。なぜかって? 貧しさと闘い、世間の冷たさと闘い、寒さや不景気と闘い、雪の中でも歯を食いしばって生き抜いているからです。これがどんなに尊いことか。この寒さの中で、よく頑張ってきましたね」
このように労ってから、まず熱い麦茶を出し、次いで熱いうどんを出します。こういう日には、いつもと順序を変え、メッセージよりまず食事です。
彼らが一杯の麦茶を飲む時、体が温まるだけではありません。注がれたキリストの愛が心に燃え上がり、氷のように冷え切った心が溶かされて、感激の涙をにじませます。そのように受け入れやすい姿勢になってから、メッセージを聞かせるわけです。
ある時、私が他教会の礼拝に招かれたため、礼拝説教を知り合いの牧師先生にお願いしました。後日、その先生が感心してこう仰いました。
「いや、驚きました。あれだけ多くの人たちが路上にずらりと並んでいながら、咳払い一つする人がいない。よくあれだけ訓練なさいましたね。日本一の教会、日本一の信徒ですね」
それは私の力ではありません。人を造り変える神様の新創造の力によるのです。もちろん、神様から委ねられた信徒たちを厳しく訓練するのは、牧師の責任です。信徒がキリストの命によって、五臓六腑まで新しく造り変えられていなければ、クリスチャンとは言えないのですから。
ある夏の日曜日、道路を車両止めにして、おみこしの行列がやって来ました。
「ワッショイ!!ワッショイ!!」
行列はだんだん教会に近付いてきます。370人ほどの人たちが、いつものように整列して礼拝を守っている路上近くまで来ようとしていました。そのため、教会に来ようとする人たちも遠回りしなければなりません。
(ようし、負けるものか。おみこしの中身は人間の手で作った偶像の神だが、こちらは形は見えなくても本物の神様だ)
私がそう思ったと同時に、教会員たちも口々に言い出しました。
「先生、俺たち『ただ信ぜよ』を歌いましょうよ」
皆、今やそんな賛美のリクエストが出せるまでに成長しました。立派な信徒たちです。外見は至ってみすぼらしいかも知れません。でも心の中にはイエス様が住まわれているから、希望と力と勇気が与えられているのです。高級ファッションで身を固めて、銀座通りを闊歩している紳士よりも、心はよっぽど綺麗です。
十字架にかかりたる 救い主を見よや
こはわがおかしたる 罪のため
ただ信ぜよ ただ信ぜよ
信ずる者はだれも みな救われん
(聖歌424番)
この日の礼拝出席者全員が、声を揃えて天に届けとばかり歌い出しました。すると、おみこしを先導していた警官たちは回れ右を指示しました。先頭のおみこしが、それに従ってクルリと向きを変えてUターンを始めました。ところが、後ろに続くおみこしにはその指示が伝達されていないため、何が何だか分からないまま、足並みが乱れ、担ぎ手たちは揉みくちゃになりながらも、ようやく回れ右をして戻っていきました。礼拝出席者たちの「ハレルヤ!」の歓声が天高く響き渡りました。
私たちを先導して下さるのは、勝利の主、万軍の主です。その導きに従ってさえいれば、道をUターンする必要はありません。足並みを乱すこともありません。ひたすら前進するのみです。(続く)
森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。