生駒聖書学院での生活は、祈りと聖書の学びが中心である。私が来た卒業式の日以来、何と入学式後も継続し、四月から六月まで集会が続いた。伝道会に次ぐ伝道会、路傍伝道から天幕集会。中でもフェスティバル・ホールで三週間にわたって行なわれたボブ・ピアス・クルセードはまさにリバイバル状態で、最後の夜にはホールに入りきれない人々が、肥後橋のたもとに鈴なりになるほどだった。
そんな中で私が困ったのは、救いのあかしをする路傍伝道の時間だった。「私はこの手で何度も人を殴りました。両手に手錠をかけられ、浪速警察に連れて行かれたことは数知れず…」とか、「競輪、競馬、酒、タバコ、パチンコ。道楽の中に浸りきっていたが、イエス・キリストの十字架を信じて救われ、今は幸せです」。「虚しい心で、赤いネオン、青いネオンの下を、靴がすり減るほど、幸せを求めてきました」。「私は罪深い人間です。こんな私のために主は死んで下さいました」。次々に立って体験を語る先輩や同級生たち。
司会者が突然、「今度は若い兄弟に体験を語ってもらいます」と私を指名する。みかん箱の上に立つと、顔だけが赤くなり、かろうじて蚊の泣くような声で、「私は十六歳の時、種子島の教会で、イエス・キリストを信じて救われました」と言う。そのうちに集まっていた聴衆が一人去り、二人去り、いつしかいなくなってしまう。
反省会では、「救われた体験を話せ」「酒を飲んだことのない者に酒飲みの気持ちが分かるか」「もっと人の心を打つようなあかしをせよ」と怒られっぱなしだった。キリスト教は悪いことをしないと救われないのかと思ったり、散々だった。何しろ種子島には、きらめく星空はあっても赤いネオンはない。透き通るような青空はあっても、失望に襲われたこともあまりない。人を殴ったこともなく、勉強が嫌いなわけでもなく、失恋したこともない。みんなのしたような体験が私にはほとんどなかったのだ。
十六歳のあの日、イエス・キリストが十字架に死なれ、墓に葬られ、三日目に復活した救い主であることを聞いた時、心が震え、自分の罪を示され、「十字架の血にてきよめぬれば、来よとの御声をわれはきけり。主よ、われはいまぞゆく、十字架の血にて、きよめたまえ」と賛美しつつ決心したことは、だれにも否定できない事実である。その日の午後に種子島の澄みきった海で、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けたことも事実である。
そのことを自由に話せない自分が情けない。大胆に語れない自分を哀れに思った。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。