袴田氏は2006年に行われた教育基本法改正において、「国家の教育権を否定する条文が改定され、国家が教育権を持つようになった。国民の内心に介入し、支配しようとする権力の意図が見られる。良心が神に結びつく信仰と対立するようになってしまう。信仰の立場からこれを拒む必要がある。その意味で、教会で良心が自覚的に働く必要がある。良心を御言葉以外のものに結びつけようとする国家主義に対して警戒しなければならない」と説いた。
橋下氏の考え方の何が問題なのか?
袴田氏は今後維新の会の実権を握ろうとしている橋下氏に対して、民主主義観が選挙絶対主義となっていることに懸念を示し、「民主主義社会において話し合い、議論は大切だが、最後は選挙で解決する。決断が正しいかどうかは選挙でわかると考えており、選挙における勝利こそが改革のエネルギーであるとしている。有権者の反応に応じることが民主主義であり、民意に政治家が従うのが当たり前であるという、選挙結果を絶対視する政治観がある」と述べた。
袴田氏は民主主義における先進各国のコンセンサスとして、「民主主義では政治的権利の平等、少数意見の尊重」がなされていることを挙げ、「民主主義において最も怖いことは、多数派による独裁である。少数派の意見は尊重されるべきであり、民主主義で多数派に従うのは便宜のためであり、多数派意見が絶対に正しいからではない。日本では多数派の意見が正しいというのが多数決の意味合いのように解釈されることがある。そうなると少数派が間違っていることになる」と懸念を示した。
また橋下氏が「民主主義は感情統治」と述べていることに対しても、「民主主義は国民のコンセンサスを得るための制度だが、それは論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるものだと言っている。人は感情を支配されると、その人の論理が破たんし、発言内容が変わったとしても支持者が離れなくなってしまう。感情を支配する言葉を使い、支持を集めてくると、理性的な対話が難しくなる。理性的判断を放棄して橋下氏に心を委ねるようになる。これはきわめて危険であり、キリスト者は決してこのような人に心を明け渡してはならない」と注意を促した。
袴田氏は聖書的価値観における民主主義について「聖書は民主主義を絶対化してはいないが、為政者は公共のために奉仕するものである(ローマ13・4)。為政者が人間の内心を支配してはならない。橋下氏は常にメディアをチェックし、有権者の意識を知ることに努力している。有権者のマジョリティをそのまま肯定する。常に多数派の意見に立っている。これは橋下氏の問題というよりも、私達社会の側の問題ではないか。本当に深刻なことである」と述べた。
強い改憲思考に警戒を怠ることはできない―戦前の教会の二の舞にならないために
袴田氏は総選挙が行われるにあたって、「維新の会だけではなく、強い改憲思考を持つ安倍氏にも警戒を怠ることはできない。平和は基本的人権が保障される大切さを社会全体が失いかけてきているのではないか。たとえ少数はであっても、本当に大切なものが社会から失われないように、『地の塩、世の光』として行動する必要がある」と呼び掛けた。
また良心について、「いつのまにか良心が権力に絡み取られてしまうことがあることを自覚しないといけないのではないか。(日本社会において)ふつうに生きている中で、意図的なものの中で染みつかされているものがある。『御言葉にしっかりと立つ』というのは、自覚的に取り組まなければできないこと。憲法が変えられたりしたときに、戦前の教会が失敗した歴史を現代の教会が繰り返さないということが言えるのかが非常に不安になる現状がある」と懸念を伝えた。
民主主義とキリスト教の関係については、「日本国憲法における民主主義は大切に受け止めるべき。健全に生きる社会の少数派として、本来の民主主義の持っている思想を受け止める中で大切にしていくべきである」と勧めた。
互いに信頼し、積極的な交わりを
また民主主義の社会における教会の牧師の在り方について、「(世の中には)心がこわばっている人たちが多い。しかしそのような人たちが教会の牧師たちの中にも見られる。牧師たちが本当に福音の喜びと自由で生きているのか。心がこわばっている人たちは(信仰において)何かがおかしい。そのような人たちが教会の内外でどんどん増えているように思える。そのことが社会に生み出していくさまざまな弊害がある。心の交わり、本当の意味での交わりを教会がしていくことが大切である。ゆるぎない信頼関係をクリスチャン同士が持っていることが非常に重要である。キリスト教会も積極的に頑張って他教派と交わりをしていくべきである」と述べた。
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