奥山氏は主イエス・キリストの再臨とその後の世界について「千年王国の前に主イエスが再臨」するプレ・ミレ(pre-millennium)の千年王国論について、御言葉に沿って説明した。
世の終わりの時について、奥山氏はイエス・キリストが「イスラエルの希望」は「父が定めておられる(使徒1・6~7)」こと、すべての国々がエルサレムに流れ出て、イスラエルに仕えるようになること、すべての国の戦争は止み、核のない、武器のない世界が実現すること(イザヤ2・4)を説き、イエスの十字架、世界宣教、世の終わりがあって、イスラエルの希望が実現される終末論について伝えた。
奥山氏はⅠテサロニケ4章16節~17節を引用し、切迫した主イエスの再臨を信じ、仕えることの必要性、天国では全く新しい朽ちることのない身体に生まれ変わることを説いいた。
また終末について第二ペテロの手紙3章6~7節を引用し、「一度人間は『ノアの洪水』によって全体的に神様にさばかれたが、今の天と地は同じ御言葉によって火で焼かれるためにとっておかれている」ことを改めて説明した。
奥山氏は教会史における終末論の弱まりについて「17~19世紀の3世紀にわたって聖書をあざ笑う時代が続いてしまった。ヒューマニズム、人間万歳の時代であった。罪とさばきを取り除いたショートバイブルが作られ、唯物論が唯心論に勝るようになってしまった。しかし現代になって、天文学でも『見えない世界』があることが暗黒物質、反物質の存在によって証明された」と説き、再臨を期待しない信仰の在り方が過去になされてきたことに対して遺憾の念を示した。
20世紀に入り、核兵器が製造され、世界大戦が始まるようになった。奥山氏は過去の世界大戦について「優秀な人間がつまづいた。ソ連崩壊後の世界でも、どんどん核兵器が増えている。大国が小国に製造する資格がないとはいえない」と述べ、イランの核兵器製造によるイスラエルへの攻撃や、それに支援する政治家がいることへの懸念を示した。
聖書によると、終末には「火のさばき(Ⅱペテロ3・7)」が生じるものの、キリスト者が「雲の中に一挙に引き上げられる(Ⅰテサロニケ4・17)」ことが預言されている。そして、再臨の時がいつになるかは知らされていない(マタイ24・42)。
奥山氏はマタイ25章の花婿を迎える10人の花嫁の例えを引用し、携挙にあって「残されるクリスチャンがいる」ことを指摘し、「油を用意している花嫁は聖霊をもっている教会のこと。残されるクリスチャンとは、洗礼を受けただけの名ばかりのクリスチャン。洗礼を受けたあとに信仰を離れ、神はいない、罪はないと言う人たちがいる。そのようなクリスチャンは皆残される。再臨の日に天に挙げられるという信仰を持たなければならない」と説いた。
奥山氏は信仰のあるクリスチャンとして「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる(ヘブル11・1)。神の約束を信じ、必ず成就することを信じるべきである。携挙も信仰に基づくのである」と説いた。
奥山氏は今日の教会において、「聖霊が働かないと携挙の信仰がなくなってしまう。携挙の信仰を伝えるために再臨待望集会をしていきたい。携挙の信仰を持つことで、聖霊様が宿るようになる」と説いた。
マタイ24章15節にある「荒らす憎むべき者」が聖なる所に立つことの例として、奥山氏は第二次世界大戦時代のヒットラーの存在を挙げた。
奥山氏は今はかん難の時代であるとし、「私達の使命は初代教会のパウロのように、まわりのすべての人たちに福音を伝えること(マタイ24・14)。福音を伝えた人を立派な弟子としなければならない(ヨハネ21・17)。それが聖書的牧会伝道のあり方である。どんな方法でも良いから、すべての人に福音を伝えなければならない」と説いた。
奥山氏はドイツヒットラー独裁政権時代の哲学者の過ちとして、20世紀最大の哲学者といわれたハイデッガーがヒットラーを支持したことが、多くの知識人の判断を揺さぶらせたことを指摘し「どんなに偉大な哲学を研究していても、そこに神がなければならない」と説いた。
地上でのイエスの再臨についてゼカリヤ書14章4節~5節を引用し、「地上再臨のイエスは聖徒とともに来られる。そして千年間サタンは縛られる(黙示録20・2)。今はサタンに人間が騙されて戦争が行われており、すべての国が平和を願いつつ武器を製造している。(終わりの時には)サタンが騙すことができず、戦争が止み、核な時が来る。弱肉強食の動物の世界も見事に回復される(イザヤ11章)。この天地がなくなり、親天新地となり、神である主が彼らを照らされ夜もなく、彼らは永遠に王となる(黙示録22・5)」と説いた。
奥山氏は再臨信仰の重要性について「人間が考える救いは(度量が)小さい。人間は皆エゴイストである。(再臨信仰による)復活がなければ、すべては空しい」と説いた。