大阪駅には兄が出迎えてくれた。2人で近鉄電車に乗り換えて生駒に向かっていた時、兄が突然「義之、ヨハネ3章16節を暗唱聖句で言ってごらん」と言った。私には言えなかった。覚えていなかったのだ。「そんな知識でどうするのか」と叱られ、恥ずかしさで真っ赤になった。種子島での決意が、ガラガラと音を立てて崩れ去るようだった。
生駒聖書学院に着くと、予想に反して見すぼらしい建物で、少々落胆した。どう見ても学問の府には見えない。けれども輝くような笑顔の女性たちが、「ハレルヤ!」とあいさつしてくれた。
すぐに薄暗い男子寮に案内された。ここは勉強するところではないのかも知れないと失望し、落胆しかけた時、その薄暗い寮に元気いっぱいの明るい声が響いた。先輩の村上神学生だった。そして私を力強い握手で迎えてくれた。ちょうどその日の夜、大阪救霊会館で公開の卒業式が行われるとのことで、案内を約束してくれた。
夕方、上本町から市電に乗って天王寺まで行き、ジャンジャン横丁を通って、大阪救霊会館に着いた。ホルモン焼きの香りに混じって、汚れた臭いが漂っていた。大阪に着いた最初の夜だというのに、それだけ度肝を抜かれるようだった。
どんなに厳粛な式が始まるのかと期待していたのに、卒業生4名だけの卒業式だという。大きな体の外人が登場すると、「皆様よ!賛美していらっしゃいませだよ!」と号令をかけるような大声で叫んだ。すると大太鼓が響き、100人を越える会衆が大声を張り上げて、手を打ち鳴らして歌いはじめた。
種子島の母教会は人数も少ないが、とても静かで紳士的な教会で、静かな声で上品に賛美歌を歌っていた。「聖歌」なるものを聞いたのも初めてだったし、大声をあげ手を叩いて歌う姿には仰天した。兄からは「どんなことを見ても聞いてもつまづかないようにしなさい」と言われていたが、その心得を教えられていなかったら、逃げだしていたことだろう。
でもまだ序の口だった。もう一度あの外人の変な日本語が響きわたった。「皆様よ、手を上げて賛美していらっしゃいませだよ!」 同時に、参列者が両手を天に向かって差し延べると、なにやらわけの分からない大声で祈り始めた。私は腰が抜けそうなほど驚いた。これがキリスト教か、異端だ、間違った所へ来てしまったと思い、それから続く説教も、卒業生の決意表明も、何もかも耳に入らなかった。
さしもの長い集会も終わりに近づき、兄があの変な日本語を語る外人に、「クート先生、弟の義之です」と紹介してくれた。クート師は大きな手で握手をし、「良く来ましただ」の一言だけ。けれどもその暖かさ、いのちの温もり、包み込むような大きな信仰の姿に、私は胸を打たれた。来て良かった。献身して良かった。これから良い知らせを伝えるために勉強するぞ。揺らぎかけていた私の決意は、この出会いで再び固まった。
その日以来、「聖書を読むだよ。祈るだよ。聖霊に満たされるだよ。伝道するだよ」と幾度も聞き続け、今は自分が同じことを神学生に勧めていることを思う時、出会いの不思議さに驚き感動するばかりだ。
ここで、恩師レオナード・W・クート師のことを少し紹介したい。
彼はイギリス人である。ラックスの石鹸会社の社長秘書として22歳で来日し、日本でイエス・キリストの救いを体験した。そして異言のしるしが伴う聖霊のバプテスマを受け、「日本とペンテコステのために、イエス・キリストの来る日まで」との強い召命で、ペンテコステの牙城を築いた。関東大震災に遭ってすべてを失ったが、大阪に導かれ、生駒聖書学院を創設。第二次世界大戦中は、夫人の国アメリカで、日本から来たスパイと言われながら、インターナショナル・バイブル・カレッジを設立し、さらに戦後は韓国やフィリピンにまで神学校を設立した、パイオニア的人物である。日本の救いへの情熱止みがたく、日本で約55年間を過ごし、「前進せよ!」とのことばを遺して78歳で召されるまでのその生涯は、まさしく神の人と呼ぶのにふさわしいものであった。若い日にこのような信仰の人に出会え、その薫陶を受けたことは大きな祝福であったと感謝している。(その生涯は『不可能は挑戦となる」という自叙伝にある。)
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。