「自分の十字架を追ってわたしについてこないものはわたしにふさわしいものではありません(マタイ10・30)」
十字架とは何かを知らなければ、自分が十字架を負っているのか、負っていないのかもわかりません。引き続き十字架の意味を探っていきたいと思います。
「この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう(Ⅰコリント2・8)。」
「十字架につけられた」キリストを宣べ伝えている(Ⅰコリント1・23)とパウロは言いました。十字架につけられたキリストとはどういう意味なのかを知らなければ伝道もできません。サタンも十字架の意味がわかりませんでした。私もクリスチャンになるまではわかりませんでした。
イエス様が十字架につくということは何をもたらすことなのか、サタンがもし理解していたのならば、イエス様を決して十字架につけはしなかったでしょう。十字架に神の知恵が隠されていて、私達人間を罪から自由にすること、無罪放免とすることができることが、サタンにはわかりませんでした。
クリスチャンとなってイエス様の十字架の意味がわかったとき、祝福されていることが分かることで喜ぶことができるのです。
「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです(ピリピ3・18)。」
十字架は重いものではありません。病はイエス様がとられたので負う必要がないものです。では私達は何を負っていかなければならないのでしょうか。
十字架は何かを知らなければ、十字架を背負っているのか、敵として歩んでいるかもわかりません。
「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス様・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです(Ⅰコリント2・2)。」
博識であったパウロが、「十字架以外何も知らない」ことを決意しました。パウロは十字架にかけられたイエス様が何をもたらしたかを伝えることを使命として生きました。
十字架にかけられたということは、過ぎ越しの祭りと同じ意味があります。旧約でノアの箱舟で救われたのと、新約で私達の世界に終わりが来て天国に行くという対比があります。旧約でイスラエルの民族がエジプトからカナンの地に脱出するのと、新約でこの世の支配から脱却して天国に行くという対比があります。
過ぎ越しの祭りでは、子羊の血を塗った家の中にいることで、どんな悪い人であってもそこにいるだけで災いが通り過ぎて行ったということを学んできました。
また子羊の骨は折らないようにすることになっていました(民数記9・12)。これもイエス様の十字架刑と対比することができます。旧約の子羊の血は「動物の血」であり、すべての人から災いを覆う事はできても、人の中にある罪そのものは取り除くことができませんでした。しかしイエス様は神の子羊であり、罪を取り除く血を流してくださいました(ヨハネ1・29)。
まず知らなければならないことは、「なぜイエス様が十字架にかからなければならなかったのか?」ということです。
アダムが善悪の知識の木の実を食べてしまったことで、この地は呪われてしまい原罪が生まれ、世の中にさまざまな罪が満ちてくるようになりました。旧約の中では、人の罪の身代わりのために動物の血を捧げ物にしました。しかし神様はそれを満足されませんでした。
イエス様は、二人の強盗とともに十字架につけられたと書かれてあります(マタイ27・38)。十字架は罪人が死刑にされるところであり、正しい人がつけられるところではありません。十字架刑で生き残る人はいません。死刑の刑であり、有史以来もっとも苦しい刑でした。自分の全体重が釘にかかります。血が出て、呼吸困難になります。手が裂けるのに、一生懸命、体を持ち上げて、呼吸をしなければなりません。それを何回も繰り返していかなければなりません。それをイエス様が受けられたのです。イエス様が死ぬというのは、どういうことだったのでしょうか。
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです(Ⅰペテロ2・24)。」
十字架に架かるということは、イエス様が罪人になられたということです。しかしそれはイエス様の罪ではなく、ご自分から十字架の上で、私達の罪をその身に負われたのでした。イエス様ご自身が罪深い人であったからではなく、私達の罪のために十字架に架かられたのです。
イエス様を十字架に架けたのは、ユダヤ人たちであったと言われるかもしれませんが、実はそうではなく、私達の罪がイエス様を十字架に架けることになったのです。正しいことをやり続けることができない罪を全部解決するには、動物の血では足りませんでした。イエス様ご自身がすべてをお受けになり、イエス様ご自身が罪を負ってくださったのです。
苦しい十字架に架かられ、鞭打たれたのは、私達の病を癒すためでもありましたが、神様の本当の願いは、私達が罪を離れ、義のために生きることにあったのです。私達が罪のみちを歩まないために、私達の罪を神様が負われたのです。
この十字架の意味を知るときに、確かに神様が罪を背負ってくださったから、罪があるままで良いと思うのではなく、罪を離れた生き方をしようとするようになるのです。
旧約では何代もの人たちが罪を犯し、全人類の中に罪が溢れるようになりました。そのため旧約では罪を動物の血をもって身代わりとしていました。
しかし牛の脂や大きないけにえの数々が捧げられるのは、神様の目には「こんなに人間の罪はあるのか、見たくない」と映っていました。罪を犯し続けるので、いけにえが毎年捧げられていました。しかし神様はそれを喜ばれたのではなく、人間の罪はこんなにあるのかと思われていたわけです。このことを解決するために、毎年いけにえが捧げられて行く中で、人間は「あの罪をした、この罪をした」と思い出すようになります。罪をいけにえで贖っても、いつも罪の赦しが更新されていくだけで、消えるわけではありません。人間が罪をもっているがゆえに、力強く歩むことができませんでした。しかしイエス様が十字架に架かられたことで、罪ある人間が、無罪放免になることができたのです。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません(ローマ8・1)」と言える生き方をしていくことができるようになったのです。
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徐起源(そう・きうぉん):
恵那レーマミニストリーの代表、ERM聖書学校学長、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。
インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー公式サイト。無牧の人の為に日曜日10:30から礼拝発信 ,著書「信仰の使い方をご存知ですか?(上)(下)」「あなたは神の義をいただいていることをご存知ですか?」
※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。