我が国では、ほとんどの宗教がご先祖を敬えと言います。そして、それを否定する者は激しい仕打ちを受けることがしばしばあります。でもなぜ、そんなにご先祖様なのか・・・と思い、調べてみました。
1.祖先祭祀の本当の心を調べる
日本人の美徳とされる祖先祭祀とは何なのか。日本の宗教のほとんどがなぜご先祖を敬えと言うのか。なぜ拒絶する者を八分にしたり、時には暴力沙汰に及んだりするのか・・・(信教の自由などは守られていないように思われます)。
墓参り、仏壇を拝むことをしないなら親子の縁を切ると言われたり、親戚付き合いを拒絶されたりします。だから人々は形だけ拝む形を取って心が育ちません。
そこで私は、なぜこれほどまでに、祖先祭祀の問題は強烈なのか・・・不思議に思って調べてみました。このテーマを取り扱っている本はいろいろありますが、竹田聴洲氏の『祖先崇拝』(平楽寺書店)がよくまとめていると思いますので、次に少し引用したいと思います。
「いわゆる祖先崇拝の成立する根拠は、実にここにあるのである。これはまさに、『家』においてこそ始めて生じ、また必ず生じなければならない。およそ『家』に依拠するすべての家族にとって任意に、信じたり、信じなかったりすることの許されない1つの当為規範であって、これを否定することは直ちに、所属の家に対する反逆背徳を意味する。これは日本の家に根ざす、倫理であって、信従するか否かが個人の自由意志に委ねられている特定の宗教や教学などとは根本的にその事情を異にする。・・・・・・祖先崇拝は、どこまでも倫理的な又、抽象的な規範であるが、現実に家を荷(にな)う家族にとって、何時の時代にか、この家を創設した祖先の存在は自己の存在と同じ程度に一点の疑いもない、明瞭な事実である。それゆえ、常民が具体的に接する祖先は、常に霊魂としてのそれであり、倫理性を本質とする祖先崇拝は、実生活の上では常に宗教的、祖霊信仰、祖先信仰という外形をとらざるを得ない」(竹田聴洲氏『祖先崇拝』P22~23)
この研究によって、祖先祭祀の問題が、時には暴力沙汰を伴う、強烈なものとなる理由を理解することができると思います。
★祖先祭祀の本当の心は
「家を始めた人、命を始めた人に対する感謝」という、極めて良い動機であることを十分知ることが大切です。
この動機は拒絶すべきものではなく、受け入れ、賛同すべきことだと思います。また「これを拒否するものは裁きに合う」というセリフも賛同すべきことだと思います。裁きは同族からではなく創造主からくるからです。
今までキリスト教は相手の欠点を指摘して否定する方法の伝道をしてきたように思うので
す。「祖先祭祀は偶像礼拝だ」と否定し、攻撃するのでなく、「命を始めた方に対する感謝」という良い動機についてはむしろ称賛すべきではないでしょうか。ただ、その「命を始めた方」が誰であるかについては、話し合う必要があると思います。
自分の信じていることを否定されて喜ぶ人は極々稀です。ほとんどの人は心を閉ざし、反発し、感情的になって相手の話など聞こうとしません。
ものみの塔の改心を願った人が、相手の間違いを指摘しても、15年間に1人の改心者も得られなかったという話を聞いたことがあります。相手は心を閉ざして、もう聞こうともしなかったと。
キリスト教の伝道は、この方法を100年も続けてきて、相手は反発し、心を閉ざしてきた・・・。こうして、キリスト教は1パーセントにも満たない。最近はジリ貧とか。否定する伝道法を改めなければ効果はないと思います。キリストの良さなどは、全く伝わっていません。
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(続きは次週掲載予定)。
(本文は堀越暢治牧師の許可を得、「四輪駆動車で走りたい!(いのちありがとうの会)」から転載しています)
堀越暢治(ほりこし・のぶじ)
宇都宮大学農業土木科卒業。日本基督神学校卒業。学校法人東京キリスト教学園名誉理事。学校法人グレイス学園めぐみの園理事長。単立・創愛キリスト教会主任牧師。いのちありがとうの会理事長。著書に「人体の不思議発見」「大自然の不思議発見」(いのちありがとうの会)など多数。
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