救われたときに、私は国語が苦手で、学校での国語の成績は一回だけ「3」を取ったことがありましたが、たいがい「2」でした。英語はちょっと得意でした。そのとき何を思ったかと言いますと、「英語が得意だから通訳になろう」と思い英語を勉強していました。しかし通訳は難しいです。英語を理解できたとしても、それをわからせるためには日本語を話さないといけません。国語の能力がないとだめだと思いました。通訳は英語と国語両方できないといけません。そのとき「自分は足りない者だ」と見積もりました。
「かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです(Ⅰコリント12・24)。」
救われたとき、知識もなく、本も読むのが好きではなく、皆さんに教えられるものは何もありませんでした。始めの5年くらいは祈って「神様、何を私は説教できるのでしょうか」と祈っていました。訓練で説教させていただいても、30分が目一杯でした。だいたい10分で終わってしまうメッセージです。紙切れ一枚の高さも深さもない話しかできませんでした。能力のない者を何故神様は選んだのかと思いました。それで祈って「聖書を教えられるようにしてください」と神に願いました。
見栄えのしない器官がことさらに良い恰好になります。整っていない私。国語の能力もなく、読書も嫌いで説教もできない私でした。しかし「また、私たちは、からだの中 で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになります(Ⅰコリント12・23」)」とパウロが言っています。
ある時、私は突然教えられるようになりました。毎日祈っていたら、一瞬にして教えられるようになったのです。それまでは説教のメッセージを準備するのが苦手で夜も眠れませんでした。しかしその日突然、私がメッセージをしていたら、自分の中から言葉がどんどんと出てきました。メッセージが終わったとき、「今日はどうなってしまったのか?」と思いました。不格好な説教が良くなったのです。あなたがもし「劣っている」と思うなら、その部分をことさらに良いものに変えてくださいます。
この御言葉を語ったパウロは、『パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない(Ⅱコリント10・10)。』 と言われていました。
パウロは、話は上手くありませんでした。弱々しく見える人でした。私達のイメージでは、パウロはものすごく立派で整った人のように思えます。もともと整った器官であったのではないのかと思うと思いますが、元々パウロは整っていた人ではありませんでした。
「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です(ピリピ3・4~6)。」
パウロは元々いろいろな知識を持っていました。ここはパウロの人間的に優れている部分です。律法の義によっては、誰にも非難されることのない完璧な人であると、あの王様のように自負していましたが、イエス様に出会ってから変わりました。「みんながすごいと思っていたものは全然価値がないものだ」と言う事に気づいたのです。
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3・7~8)」
人がうらやむ知識や熱心さ、律法の正しさは「ちりあくたにすぎない」と知ったのです。あの王様と違うことは、パウロは自分が「ある」と思ったことが「ないものである」ということを知ったのです。本当の自分をパウロはイエス様に出会って知らされたのです。それは「自分は足りない者だ」ということです。
パウロは後で、「高い者」として見なされます。なぜなら神の力によってそうなっていきました。パウロ自身実はもともと整っていたわけではありません。皆さんがクリスチャ ンになってだんだん成長していくように、また私が聖書を教えられない人間から教えられる人間に変えられるようになっていったように、皆さんが変えられるということです。
パウロは救われてから14年から17年の間は有名ではなく、みんなの知らない所ばかり行っていました。その何年か後にみんなに認められる人になったのです。イエス様に出会ってすぐに奉仕に携わったわけではなく、変えられるための時間がありました。始めパウロが奉仕したとき、パウロ自身が皆さんに迷惑をかけたと言っています。
「お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。(ガラテヤ4・12~14)
「私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。(Ⅱコリント12・11)」
イエス様を信じた時、私たちが死んで、イエス様が生きるのです。イエス様の血潮で買い取られた私達の中にイエス様が生きるとき、高価で尊い者となります。
私達自身は、イエス様に買い取られたのです。本当に「高い者」として見られています。神様はイエス様を殺してまで、あなたを取り戻そうとされました。高価で尊い者なのです。
パウロは、始めは「律法に精通しており、立派な人だ」と思っていたでしょうが、イエス様に出会って、「自分は足りない者だ」と知って神の前にへりくだることで、劣るとこ ろのない者になったのです。
自分が持っていた以前のものではなく、神からいただいた地位、能力です。パウロは自分がとるに足りないもの、ちりあくただと気付いたときから、誰にも劣らないものになりました。
「私はあの先生より、あの兄弟姉妹より劣るものだ」と思っている人は、わかっていません。イエス様を信じた時に、イエス様の体の一部になり、取るに足りる者となったのです。今はそうではないかもしれませんが、あなたはことさらに尊い器に造り変えられていくのです。
パウロが「損と思った」ということは、私が思うに、金持ちの人は、元々お金を持っているため、神様にお金を満たしていただくということが体験できません。聖書をもともと教えられる人であったら、神様が私を通して聖書を教えられる人に変えてくださるということを体験できません。つまり、「ない」と思う人ほど、たくさん神を体験できます。頭が良くない、結婚できないと思っている人は、神によって頭が良くなり、結婚できるようにしてくれます。「ない」者ほどたくさん神を体験できるのです。
「私は取るに足りない者」とパウロが言ったとき、神が満たしてくださり、神の器として立つことができるようになりました。自分の欠点があるからこそ、ことさらに良いものに変えられるのです。
私の弟は、立派な人格者です。生まれながら思いやりのある人です。私はわがままな長男で、人の気持ちがわからない者でした。自分が新しいものを着て…自分としては「愛 が足りない」と思っていました。ところが神は「足りない」とわかっている私を愛してくださり、造り替えてくださいました。もともと愛を持っている弟ではなく、愛のない私の中に愛が流れるように少しずつ変えてくださっています。
前は「あれがない」「これがない」とつぶやいていましたが、今は逆で「ないことは最高。お金がない、愛がないから、私は神から与えられ、足りないからことさらに尊んで良い者として高めてくださるから最高である」と思えるようになりました。
これを知るときに、私たちは慌てなくなります。直ぐに変えようと一生懸命やらなくても、神様が変えてくださいます。私はいつも「何でこういう性格をしているのか」と思ってしまうことがあります。まだこれで牧師やっているのかと思う時がありますが、それでも神が変えて下さると信じることで、変わっていくのです。
聖書を教えられなかった私が突然教えられるようになったように、「愛の人に変えてください」「思いやりがある人に変えてください」と祈り、どのような点でも劣っているところが無い人になると信じ、足らない所を知って神が変えて下さることを知る喜び、希望があることを信じてください。
「私は『ある』」と言う者は神の目から見て「足らない」のですが、「ない」と言う人はイエス様が埋めてくださるので「足りる」ようになります。ない者をある者にしてくださいます。経済に困っていた者を、経済に富む者へと変えてくださいます。私たちは殊更に変えられていきます。
「かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです(Ⅰコリント12・24)」
私たちは調和を取れるように変えていただけます。「今の自分がどのようであるのか」を気にするのではなく、劣ったところがあるとしたら、殊更にそのことを神が変えて下さると信じるとき、力となります。
私は足りない者ですが、「あなたが私の中に生きているなら、私は足りる者である」と信じるとき、落ち込むことはありません。
足らないものでありましたが、あなたに選ばれ、祝福を受け、イエス様を持っていますので、私は足りるのです、変えられるのです。カッコよい人に、光に変えられるのです。あなたが私を高価で尊い者として見て下さるので感謝です。イエス様のお名前で、私は祝福されています。「ない」ことは最高です。なぜなら埋めてくださるから。お祈りします。
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徐起源(そう・きうぉん) :
恵那レーマミニストリーの代表、ERM聖書学校学長、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。
インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー公式サイト(http://www.ermbible.net/)。無牧の人の為に日曜日10:30から礼拝発信 http://ustre.am/gL5a ,著書「信仰の使い方をご存知ですか?(上)(下)」「あなたは神の義をいただいていることをご存知ですか?」
※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。