中里氏は洗礼を受け、クリスチャンとなった後のキリスト者の問題について、「クリスチャンになってから長い間解決されていない問題がないでしょうか。教会の問題を解決するには、『霊的な目』が開かれる必要があります。霊の目が開かれていれば、いつもイエス様が共にいるということがわかります。十字架体験がなければ、イエス様との交わりはありません」と説いた。
聖書には、さまざまなタイプの霊の目が開かれた人たちが登場している。エペソ書1章17節~18節には「栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えてくださること」、「心の目がはっきり見えるようになること」を願う御言葉が書かれている。
中里氏は、クリスチャンが何かを祈り、願うときに、「自分の思いで願って告白しているのか、聖霊に委ねて聖霊の思いを告白しているのか」を判別していくことが重要であると説いた。またクリスチャンと世の人の違いとして、「世の人たちは『古い自分』の中で生きています。聖書の御言葉を見ますと、キリストのうちにあるなら古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5・17)と書かれていますが、本当にそのように感じることができるのでしょうか。(そのように感じられないとしたら)何がそのように自分が感じるようにさせていないのでしょうか。世の古い人、古い自分は過ぎ去り、キリストのうちにある自分となりました。『世の罪を取り除く神の子羊』によって、この世から救われたのにもかかわらず、救われる前の『古い自分』に生きているために、多くのクリスチャンが、どこが変わったかがわからないまま過ごしています。あなたが『イエス様を信じます』と告白したときに、あなたの霊が新しく再生されます。聖霊様はきよい霊ですから、あなたの『肉』に住むことができません。再生された新しい、死んでいた『あなたの霊』の中に聖霊が入りました。世の人と絶対的に違うところがここにあります」と説明した。
中里氏は「新しく再生されて生き返った『あなたの霊』の中に聖霊様が住んでおられます。聖霊に聴き従うことをしていなければ、本当のクリスチャンとはいえません。真のクリスチャンとは、一挙手一投足すべてこの霊に従って生きている人です。目指すべき霊的な人は、この神様の霊に聴き従って生きる人の事です」と説いた。
クリスチャンとなり新しくされたにもかかわらず古い人のままで生きてしまっているクリスチャンの問題として、中里氏は「あなたが新しくされているのに、いつも聖霊を置き去りにして、自分の思いで生きてはいないでしょうか。新しくされているのに、古い自分で生きていると、心に煩いが出て来ます。この煩いが、やがて外側のからだに現れて病気となってしまいます。思い煩いが強くなると、精神的な病になります。肉体的にあなたが『霊の人』にされているにもかかわらず、世の人の古い習慣で生きているのならば、だんだん疲れてきて、体の方が、力がまわらなくて病に陥ってしまいます。あなたの信仰が、救われる前と何も変わらなくて、喜びが無いという状態であるとするなら、何かがおかしいと考えて下さい」と注意を促した。
日本のように偶像礼拝が多い国では、必ずクリスチャンがキリストによってしっかりと守られる必要があるとし、「人が霊的に目が開かれて、霊的に変えられると、サタンが黙っておらず、霊的な戦いが始まります。新しくなりたいと思いながらも、古いものにしがみついている姿はないでしょうか。あなたの内側から聖霊が湧き出て来るまでは、(信仰は)借り物です。一歩(聖会から)出たとたんに世間話をしてしまう。これを繰り返していても、本当のクリスチャンとしての働きをすることはできません。サタンは、あなたの霊の目が開け、力ある異言を語ることを望んではいません」と述べた。
さらに第1ヨハネの手紙2章27節を引用し、「キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっているのですから、クリスチャンは他の人から教えを受けようとするのではなく、『内なる聖霊に聴く』と言う訓練をしなければなりません。クリスチャン生活の最終的な目的は『御霊のクリスチャンとなること』です。あなたの自己、古い自分を丸出しにするのではなく、あなたの魂・肉が聖霊の導きによって覆われる必要があります」と説いた。
またローマ書7章は「聖霊の法則」が書かれていると伝え、「ニュートンは地球に万有引力があることを発見しました。物は上から降ってくるのであって、下から降ってくることはありません。人間の頑張りや人間の力で変えようとしなくても、人間には変えることのできないものを法則・原則といいます。クリスチャンになったということは、天の法則に従わない限り、どんな働きを行っても失敗するということになります。子どもを育てるときに、親の考えや思いを押しつけてはいけないように、クリスチャンも他の人に自分の考えや思いを押し付けるのではなく、第1ヨハネ2章27節に書かれてあるように、聖霊に聴く訓練をしなければなりません」と説いた。
いやしの業を行う人、御言葉を教える立場になる人について、中里氏は「あらゆることにおいて霊的なことが分かる人、霊的な目で見て判別できる人、そして、神の声に聴き従う人、『シオンの山』、『聖なる山』にいて、いつももっとも神の近くで祈っている人でなければなりません」と述べた。
最後に中里氏は、「私たちが本当に神様に用いられる者となりたいと願っているのであれば、本気で十字架を負うことが必要です。いのちを救おうと思う者はそれを失い、キリストのためにいのちを失う者はそれを見出します(マタイ16・25)。その(弟子としての)使命を果たすべきです。楽をして自分が良いことをしようとしても、できません。『霊の目で悟る』ことが必要です。内なる聖霊は、あなたがいつ選んでくれるかずっと待っています。聖霊を置き去りにせず、すべてのことに関して聖霊に従っていくことが必要です。なぜなら『私はキリストとともに十字架につけられ、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられ、今肉にあって生きているのは、キリストが私を愛し、私のためにご自身を捨てて下さった信仰による(ガラテヤ2:20)』からです。『聖霊は法則である』という事を信じ、サタン、罪の法則、古い自分を切って捨て、罪の法則を拒絶して聖霊の法則に従えば、聖霊の法則からは良いものしかやって来ません。これが法則です。是非聖霊の法則に従ってください」と促した。