翌月曜日の一時限目が終わると、クラスの男子生徒のほとんどに周りを取り囲まれた。みんなにやにやしている。私はなぜだか真っ赤になった。そんなに大胆でも積極的でもないし、バンカラでもない、どちらかと言えばおとなしい真面目な生徒だったのだ。そのうちにクラスで一番大きい生徒が、私の前にひざまずき、胸の前で十字を切った。それが合図のようにみなで、「アーメン・・・・・・」とはやし立てた。私の真っ赤な顔が、さらに赤くなる。どうして分かったんだと心臓の鼓動が聞こえるほどだ。
海岸で歌を歌い、服を着たまま海に入る人々を、柔道の練習に行く途中の友人が見て、不思議に思い近づいたら、その中に榮義之がいたという次第であった。だれにも知られないよう決心した私だが、バプテスマを受けたのは厳然たる事実である。イエス・キリストを信じたのも、だれに強制されたのでもない。十字架にいのちを捨ててまで愛してくださった方を、深い感動とともに信じたのも事実。だから真っ赤になりながらも、蚊の鳴くような声で、「そうだ。僕はアーメンになったんだ。みんなもいっしょに教会に行こう」と言った。それが精一杯だった。しかしこれがクリスチャンになって最初のあかしとなった。
その日以来、クリスチャンであることを恥じたことはない。酒も飲まず、タバコも吸わず、人生何の楽しみがあるのかと冷やかされたこともあった。しかし、この世の楽しみは、それが何であれ、虚しさに終わる。そのことは、本人自身が一番よく知っている。そんな虚しい空洞を、イエス・キリストは満たしてくださるのだ。人はイエス・キリストを受け入れる時、初めて真の満足を得る。その腹から生ける水があふれ、流れ出すような、いのちの充実を体験することができる。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」 (ヨハネの福音書4:13、14)
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」 (ヨハネの福音書7:37、38)
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。