「キリストの奴隷になりなさい」
「音楽と映画の夕べ」には、NHK番組にも出演したセミプロのハーモニカ演奏グループが、事前に「山谷の労働者のために、私たちも無料出演させてください」と申し出ていました。私は根が単純なものですから、すっかりうれしくなってしまい、お願いすることにしました。
彼らは、賛美のレパートリーはあまり持っていませんが、「誰か故郷を思わざる」といったナツメロを何曲も演奏してくれました。会衆は心が解きほぐされ、最後には「慈しみ深き」の賛美で締めくくることができました。
ところが、人生には、予期せぬことが起こるものです。このグループリーダーのAという男は、アルコール依存症で、殺人未遂で七回も入獄した前科者で、悪知恵のたけた人間でした。それは、彼がこの催しが終わったその夜、私の家にやってきた時のドアの叩き方でわかりました。(あっ、サタンが来たな)と思いました。
彼は、玄関に入ってくるなりこう言いました。
「森本先生。あれだけの催しをやるのに、区役所からどれだけ金を貰ったんだ。言ってみろ!おいっ」
彼の一方の目は潰れていて、もう一方の目はそれこそ豹のように変化します。心の状態が良い時には真珠のように輝きますが、この晩はサタンにすっかり支配され、殺気立ってギラギラ光っていました。
人は、神が与えた良心に従う心=聖霊に従う心をもっています。その一方で、悪魔の誘惑に従って罪を犯す心を同居させています。ある著名な画家が、気品と権威を備えたイエス様の崇高なお姿を描こうと思い、モデルを探し出して描き上げました。それから十数年後、イエス様を裏切ったずる賢く邪悪なユダを描こうと思い、モデルを探し出してきました。ところがそのモデルは何と、画家がかつてイエス様のモデルとして描いた男と同一人物だったのです。
この逸話が示すように、人は、神様によって新しく生まれ変わらない限り、不安定な二重人格者に過ぎません。自分の都合で神様のようになったかと思うと、悪魔にもなります。Aも同じでした。
私は驚きながらも、黙って聞いていました。
「オイッ。その分け前をこっちにもよこせ」
私は返事をする代わりに、心の中で主の御前に叫びました。
―主よ。この場をあなたにお委ねします―
そして、この男に言いたいだけ言わせておいてから、こう切り返しました。
「何をーっ。言いたいことはそれだけか。金が腐るほどあっても、お前にやる金はないっ!」
彼は、びっくりして私の顔を見たものの、さらに言葉を荒げました。
「金を出すのか出さないのか。出さなかったら、ただじゃおかねぇ。殺してやるぅ」
私は、むらむらっと義憤が湧いてきました。クリスチャンに怒りは禁物ですが、神が与える聖なる怒りというものがあります。
「こらーっ、殺(や)るなら殺ってみろ!殉教はこっちの望むところだ」
私の心は、聖霊の火の玉のように燃え上がり、わっと立ち上がったものですから、彼は腰が抜けてしまったらしく、ヘタヘタと座り込んでしまいました。
「お、俺が悪かった。いゃー、俺という人間はどうしてこんなに悪らつなのか、自分でも嫌になる。先生、俺は毎日夜が明けると、今日は誰を騙して金を巻き上げようかと考えている。だから先生も、もしかして俺と同じじゃないかと思ったんだ」
「こらっ、その腐れ根性を捨てなさいっ!あの催しの金は、どこからももらってない。はばかりながら、化粧品セールスで身を削りながら働いてきた金を使ったんだ。つべこべ抜かすな」
彼は、私がにらみつけるたびに怖くなるらしく、平身低頭するばかりでした。
「俺は、どうしても欲が深くてな。悪いと分かっちゃいるけど、やめられない」
「あなたは、善悪をわきまえていながら、なぜ悪から抜けられないのか分かる?それは、悪魔の奴隷になっているからですよ。これからはキリストの奴隷になりなさい」
Aは、最後にこう言いました。
「先生、ねぇ。どこかにキリスト教の刑務所があれば入りたいんだよ。朝から晩まで、賛美とお祈りをして、聖書を読みたいんだよ」
彼はいろいろな本を読み、聖書も何十回も読んでいました。しかしそれは、単に知識欲を満たし、傲慢にさせるためでしかありません。
「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」(1コリント8・1)と聖句が諭す通りです。神の言葉・聖書は、文字面だけ何百回読んでも無意味です。文字にキリストの命が加わって初めて、生きたものとなるのです。結局Aは、この町から姿を消し二度と寄りつかなくなりました(続きは次週掲載予定)。
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(本文は森本春子牧師の許可を得、「愛の絶叫(一粒社)」から転載しています。)
森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。