池氏は、1924年に北朝鮮に生まれ、第二次世界大戦終了後、韓国ソウル大学で学び、卒業後韓国において雑誌『思想界』主幹を務めた後、ニューヨーク・ユニオン神学校に留学後、1972年来日、東京女子大学教授を勤めながら、韓国の民主化運動を支援してきた。1970~80年代には、韓国民主化闘争の生の声を「TK生」として世界に発信したことで知られている。韓国金大中政権においては、日韓共同歴史研究韓国側代表、韓日文化交流政策諮問委員長などを歴任し、新しい日韓文化交流を引き起こした対日文化政策を主導してきた。2004年以来すべての公職を退き、今後米国に永住予定である池氏の講演会は、今回が最後の来日講演となる予定であることから、会場となった信濃町教会には約220名もの聴衆が集った。
北東アジア史から見た日本とは
講演を通して池氏は東アジアの今後のあり方、日韓関係や日本のアジアで果たすべき役割、諸教会の役割について提言を行った。まず東アジア史から見た日本と日中韓の相違について池氏は、日本、中国および韓国の違いを優劣でとらえるのではなく、相違として、東アジアの豊かさとしてとらえていくべきであるとし、戦後の始めは日本には「北東アジアから逃避しよう」とする傾向があり、「戦後の後遺症」ともいうべき現象であったのではないかと指摘した。
日本と韓国の歴史を比較して池氏は、戦前の日本は天照大神という神話の時代を理想の時代とした時代であり、またそのような時代は韓国でも似たような檀君(ダンクン)時代とよばれる時代が存在しており、どちらも民族主義的な理想を求めた「虚構の時代」を経験してきたと指摘した。また「日本は東アジアの他の国々と異なり、個性を尊重する優れた国である」とし、今後の日本は、「世界におけるアメリカの様な役割をアジアにおいて果たしていくべきではないか」と提言した。
池氏にとって1965年前後の日本は、「知的衝撃の日本」であったという。当時来日を果たした際、池氏は「戦前からの長い(日韓の)敵対関係を見直して、互いに理解し分かり合わなければならない」と感じたという。1919年の3.1独立宣言で反日政策を展開してきた韓国は、終戦後、日本が非武装の時代に進んでいくのとは逆に、東西冷戦の最中にあって「南北線武装」の時代に突入した。1950年に朝鮮戦争が生じ、休戦状態に入ったものの、現在でも最近の北朝鮮によるミサイル発射などが生じ、対立関係は続いたままとなっている。
日本で滞在し、日本の教会の支援を受けながら韓国民主化運動を進めていくことができたことについて、池氏は「日本の教会によって戦後における日韓共同の働き、韓国民主化の働きが促されました。日本での滞在に心から感謝しています」と述べた。一方で「歴史におけるネメシス(復讐)」の問題が残されていることも指摘し、日本が残された東アジアを放置して米欧との関係を先に考え続けることで、やがて東アジアからネメシスとなってその結果が返ってくる危険性も指摘した。ヨーロッパでもドイツ人はドイツを信じ、フランス人はフランスを信じる民族主義の壁を乗り越えて欧州連合(EU)が形成され、ヨーロッパ共同の歴史教科書が採択されていったように、東アジアにおいても民族主義の壁を乗り越えて、日中韓が競争しながら協力し合う時代を模索していくべきではないかと提言した。中国がまだ民主化時代において遅れを取っている中にあって、まずは民主化されている日韓関係が互いに協力し合い友好化されていくことが、今後の東アジア共同体の礎になっていくのではないかと指摘した。
また東日本大震災に対する支援について、「日本のマスコミが、東アジア各国からの震災支援・協力の働きをもっと大きく取り上げるべきではないでしょうか。震災を通して、東アジア各国では日本に対する新しい関係を持ちたい、『日本の喜ぶ姿が見たい』という思いで多くの支援がなされています」と述べ、今後の東アジアを単位とした、政治は対立しても文化は共有する東アジア各国の友好関係のあり方を提言した。
反倫理的政治社会に対する教会の役割
またキリスト者の中には、「大勢の祈る人々」と「少数の闘う人々」が存在することについて「心は同じにしながら、行動は別々に与えられた役割を担うべきであり、自己が善であり他者が悪であると断定したり役割の違う人々を安易に批判してはならない」と述べた。韓国においても政界では与党と野党が互いにののしり合う状況が続いており、互いに牽制し批判し合う報道に国民が疲弊している様が見られると伝えた。池氏は「世界的に政治勢力が武力化している中にあって、国民の力は散り散りばらばらになっており、脱力感さえ感じているのではないか」と述べ、理念によって動く知識人ではなく、理念のために動く知識人が回復されていくことで、「権力に頼って飯を食っている知識階層ではない者の集まり」として、「政治に対して『良い意味』における圧力をかけていかなければならないのではないか」と述べた。
今後の教会の役割として、理念によって動くアカデミシャンではなく、理念のために生きる知識人の回復、民主化闘争時代の牽引力の回復のために日中韓教会が「共感の場」を提供していくことが大切ではないかと伝えた。また池氏は社会運動における教会の行ってきた過ちとして「社会にあまりにも多くの『敵』を作り過ぎてしまったのではないでしょうか。教会は敵対勢力を形成する場ではなく、共感の場として寄与していくべきではないでしょうか」と指摘した。