「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです(Ⅱコリント8・9)」
経済的恵みも祝福です。恵みを知っていても、迷う理由は、今の社会状況や環境を見るからです。私たちが富むためにイエス様が貧しくなられました。恵みとまことが実現しました。実現した恵みとまことを知らない限り、サタンに振り回されます。
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう(Ⅱコリント12・9)」
私は恵みを受けやすい人です。恵みを受けられる人は、自分では何もできないこと、自分は義でないこと、賢くないことを知っている人です。私は自分が皆さんの見本になれないことを知っています。
「私の力ではできない」ということをはっきり知るときに神が働きます。自分で頑張らないで、神様にやっていただくときに恵みを受けます。神様だけが頼りであることを知るときに恵みを受けていくことができます。
「 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました(Ⅰテモテ1・14)。」
恵みを受けていることを信じようとしているなら、あなたが頑張っていることです。そうではなくキリストにある信仰を受け入れることです。あなたの信仰でなく、キリストの信仰で立つことです。「In Christ(キリストにあって)」で、キリストの信仰で義人として立てるという信頼をすることです。恵みはヨハネ1章17節でイエス様によって既に実現しているので、受け取れば良いのです。
もう一つ、キリストの中にある愛を知るとき、恵みを知ります。恵みを受け入れらない人は、「私がこんなことを言ったらずうずうしいのではないか、こんな祈りをする資格がないのではないか」と考えます。神の愛を知らないから遠慮します。放蕩息子は召使の地位で、帰ろうと思いました。しかし、父なる神は罪あるまま、息子の地位で、受け入れようと思っているのです。背後でなされた、キリストの身代わり、恵みで、帰れたのです。
この恵みを知らなければどうやって恵みを伝えることができるでしょうか?
聖書を読んで、自分を苦しめている人がいます。Ⅰコリント13章4~8節「愛は寛容、親切・・・」の愛は、神の愛なのに、「私は寛容でも親切でもない・・」と自虐するのです。ヨハネ21章15~17節、新改訳foot noteを読めば、ペテロもアガパオー(神の愛)でなく、フイレオー(人間の愛)でしか、愛せなかったのです。神の愛を神から受けてから、満たされて後、自然と流れるのです。ピリピ2章1、2節でパウロはまず、受けなさい、それから愛し合いなさいと言っています。
「アガペの愛」の恵みをまずあなたが受け、神の愛が満ちて流れるようにさせなければなりません。「アガペの愛」が「あなたに対する愛」ということを知らなければなりません。Ⅰコリント13章4~8節の御言葉の愛を神はに、変えて読んでください。「神様は私に寛容」、「神様は私に親切」、「神様は私の祝福をねたみません」、「神は私に礼儀に反することしません」、「神は自分の利益のために私を使いません」、「神は私に怒りません」「神は私の悪を思いません。」「真理、御言葉を喜ばれます。」「神は私のすべてをおおってくれます」(新改訳foot note)「神は私を信じ、期待して、耐え忍んでくれます」「その神の私に対する愛は絶えることはありません」、と読んでみてください。神様が自分を見る愛と捉えるとき、アガペの愛に満たされ、満たされたまま、溢れたものを流せば、自然と愛せる者に変えられると思います。
さて、本論に戻りますが、キリストの中にある恵みと信仰を知ることによって、私たちは恵まれるようになります。
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます(Ⅰペテロ5・10)」
福音とはキリストの中にある恵みです。キリストの中にある自分を知らない限り恵みを知ることはできません。自分ひとりで自分の信仰で立ち向かおうとするとき、あなたは恵みを知ることはできません。
キリストの中で私たちは、キリストとともに十字架に架かり、キリストとともに地獄に行って、キリストとともに復活したことを知るかぎり、天にいることができます。十字架の業を外から見ている分には、そこに一緒にいることはできません。キリストの中で私は富んでいると言える人、キリストの中でキリストによって罪が解決されたと信じる人は、恵みに授かることができます。
「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました(エペソ2・6)」
福音はキリストの中にある恵みのことであり、キリストの中にある自分を知るとき、あなたの霊は既に天国に行っています。キリストの中にある恵みが自分のものであるとわかったときから、あなたは、将来と希望溢れる人生を生きることができるようになります。
「しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、 またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした(エペソ4・20~24)。」
キリストの中の新しい人を知ることが恵みであり、福音なのです。
キリストの中で、聖い、傷ない、非難されることがないのです。(コロサイ1・22)
キリストの中で、決して罪に定められません。 (ローマ8・1)
キリストの中の知恵は私たちのものです。(コロサイ2・1,2)
キリストの中で私は何でもできます。(ピリピ4・13)
キリストの中に隠されている新しい自分を発見する時、主イエスキリストの恵みに満たされるのです。(コロサイ3・3,4)
「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい(Ⅱペテロ3・18)。」
福音とはキリストの中にある恵みであり、キリストの中にあるものは、「もう自分のものである」ということを知るときにその恵みに授かることができるのです。
吟味して正しい所だけ、受け取って下さい。御言葉だけが残りますように、栄光を主イエスにお返しします。
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徐起源(そう・きうぉん) :
恵那レーマミニストリーの代表、ERM聖書学校学長、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。
インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー公式サイト(http://www.ermbible.net/)。無牧の人の為に日曜日10:30から礼拝発信 http://ustre.am/gL5a ,著書「信仰の使い方をご存知ですか?(上)(下)」「あなたは神の義をいただいていることをご存知ですか?」
※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。