後日、彼は、「あの時は、森本先生いよいよ気が狂ったと思った」と言っていました。もっともです。私は山谷の人たちには「どんな仕事してるの?」とか「故郷はどこ?」とか年齢や名前など聞かないことにしています。先方から言ってくれれば聞いてあげますが、聞かれることを嫌がる人がたくさんいるのです。それで徳野兄弟についても、苗字以外に年齢も経歴もまったく知りません。神様はそういう人を「結婚相手として受け入れよ」と言われるのです。喫茶店を出て一人になったとたん、無性に腹が立ってきました。本心に立ち帰ったのでした。
―神様。なぁんで私があの人と結婚するんですか。あなたは私の意思なんか完全に無視なさってるじゃありませんか。―
突き詰めていくと結局、人間というのはどうしても優越感が拭い切れないのです。私の場合、おまけに、自分は牧師だというプライドがありました。もし相手が、大学教授などの社会的地位や肩書を持つ人でしたら、(あぁ、これは良縁だ)とばかり、飛びついたかもしれません。神様は、そんな私の心中を探られておっしゃいました。
―あなたの中に残っている、そのプライドを捨てなさい。―
―はい。あなたの御心でしたら従います。―
そう申し上げている自分に気がついたとたん、大きな平安に満たされました。更に三日間、祈っていても迷いというものがまったくありませんでした。私はどんなことでも―主よ、これはあなたの御心ですか。―と尋ね、それで確信が来たら絶対に迷いません。それが、たとえどんなに険しい道であっても、忍んで通ってきました。それは、こんな祈りがいつも心に刻み込まれているからです。
―天地万物を創造し、支配なさり、万物の生死を御手の中に握っておられる主よ、御心でしたら、どのような十字架も喜んで背負ってまいります。―
それから三日後の午後三時に、約束した公園に行きますと、徳野兄弟もやってきました。私はベンチを指さして「どうぞ、おかけください」と言いますと、彼は目礼して端に腰かけ、私は一方の端に腰かけました。二人とも初めから沈黙したまま、まるでパントマイム(無言劇)を演じているかのようです。少したって、私は思い切ってこう切り出しました。
「……あの、すみませんけど、お返事を聞かせてくれませんか」
そのとたん、これまで経験したことのないきわめて厳粛な時間がやってきました。あたかも生きとし生けるものが、ことごとく息をひそめているかのような、腕時計が一刻一刻と秒針を刻む音が耳に響いて、相手の心臓の鼓動まで聞こえてくるかのような、全神経が凍りつくような、髪の毛一本一本が逆立つような、張りつめた時でした。裁判の席で、死刑か無期懲役か、下される判決を待つ間の、生死の境目に立たされているような状態とでも言いましょうか。
そうやって、どれだけの時間が流れたのでしょう。ようやく彼は、ひとことポツリと言いました。
「……私には、答える言葉がありません」
さもありなんと思いました。二人ともさらに黙り込んでしまいました。再び、張りつめた時間が流れていきます……。
彼は沈黙を破るようにして、もう一度重い口を開きました。
「……私に言えるのは『神の御心でしたら、従います』ということだけです」
驚きました。この人は、私と同じ答えを持っています。してみますと、やはりこの結婚は神様の御心なのです。そのことに思い至りました私たちは、これからの歩みを神様に委ねて1977年に結婚しました。
~聖川基督福音教会・献堂~
話は戻りますが、伝道を始めて二年後から、聖川(せいせん)基督福音教会と名乗ってきました。以前所属していました日本福音教団の慣例で、教会に必ずつけることになっています「聖」という字と、その頃の教会堂所在地、台東区清川という地名から「川」の一文字をとりました。
当初借りていました三畳ほどの山谷伝道所は、集会ごとに100人以上の人たちが道路まで溢れるようになっていました。それに二年の賃貸契約期限が来て、立ち退きを迫られていました。私は、化粧品セールスの収入を使って自給伝道をしています。どこからの援助も得られませんので、広い家を借りるための家賃は支払えません。それに山谷周辺は住宅密集地帯ですから、広い家を借りることなどまず不可能だろうと思っていました。
しかしそれは「一プラス一は二」という科学の世界です。信仰の世界は不可能を可能にし、一プラス一は百にも千にもなるのです。神様は、必ず必要を満たして下さると信じ、祈り続けていくなら実際に信じた通りのことが起こるのです。
ある日、一軒家を貸してくださる方がいる、とのニュースが入ってきました。その家は十畳、六畳、四畳半、台所、それにお風呂までついているといいます。浴槽を使えば、毎回洗礼を授けることもできます。それまでは、洗礼式のたびに奥多摩の秋川渓谷まで出かけていたのでした。
家主さんはこう言ったそうです。
「私は無神論者だが、森本先生が伝道者として山谷で実践している姿を見て、この人は本物だと感服させられたんです。この家の敷金など要りません。家賃四万三千円だけで結構です」
これは74年当時の話ですが、その頃でも、一軒家を借りるには15~20万円位が相場でしたから、四分の一程度の家賃で借りることができたわけです。私はその家を見ないで契約し、すばらしい伝道所を与えてくださった神様に感謝しました。
その家に移ってからは、月曜日だけ子供たちの待つ都営住宅に帰るようにして、それまで通り火曜日から日曜日まで毎晩集会を行いました。日曜日には早天祈祷会、午前の礼拝、夜の伝道集会を持ちました。すでに主人が召天したあとでしたから、夜の集会のあと、病院に戻る必要はありません。毎晩12時すぎに、伝道に奉仕してくれる人々とともに一日一食のそうめんをいただきます。
「今日も、こうして神様のご用ができるなんて、私たちは世界一幸せ者ですよね」と口々に言い合ったものでした(続きは次週掲載予定)。
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(本文は森本春子牧師の許可を得、「愛の絶叫(一粒社)」から転載しています。)
森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。