主人の存命中は、無我夢中で身も心もぼろぼろになるまで看病し抜きました。その反動が来たのでしょう。葬儀が終わって、山谷の集会を他の伝道師にまかせて何日か家にいる間に、魂の抜け殻のようになってしまいました。買い物に出かける途中で、ふっとわれに帰り、「あら、私は今どこに行こうとしているのかしら」と首をかしげるようなありさまでした。ふらふらしながら帰宅しますと、恵芝は私に命令します。
「ママっ。今日はゴミの収集日なのよ。憶えてちょうだい。ママなんか、ゴミ捨てしたことないでしょう。ゴミ、ちゃんと捨てといてね。洗濯も頼むわよ」
私は、針のむしろに座らされているかのようでした。夜寝ようとしますと、恵芝は、「この部屋は狭いから、向こうの部屋に行って」と指図します。でも向こうの部屋は六畳で息子三人が寝ていて、私の入る余地はありません。あとは台所しかありません。私は夜になりますと、台所のテーブルを片隅に寄せて、畳一枚分ほどの板の間に毛布を敷いて、身をかがめるようにして寝ました。神様は、私を用いなさる時、母親としてのプライドも何も捨てさせなさったのです。
やがて、六年間の介護生活から解放されたという実感が徐々に湧いてきました。そしてこれからは、持てる時間も体力もすべてを神の栄光のために捧げようと再決心しました。夫婦が共倒れ同然になり、私はこれで死ぬのだと思った時、われを忘れてこう祈り、息を吹き返したことが思い出されました。
―主よ、私をもう一度新しい命に蘇らせてくださるなら、残りの人生をあなたの栄光のために捧げます。―
与えられた使命がまだ残っている限り、神は其れを全うさせなさるため、死んだ者でさえ生き返らせてくださるのです。そして、主人を一日一日と生かしてくださった奇跡的な神のみわざを思い起こすたび、心の中から賛美の炎が燃え上がってくるのでした。
恵芝の迫害は、子供よりも神様を選んだことはやはり誤りではない、という確信をむしろ強めることになりました。
毎日「出て行け!」と怒鳴りつける娘に対しては、ひたすら忍耐しました。しかし人間、とことんまで忍耐したあとは、言うべきことは言わなければなりません。ついにある日、私は恵芝に言いました。
「この家は誰の家?」
「……そうねえ。ママの名義で東京都から借りているんだから、ママのだわ。いいわよ、私が出ていくから」
恵芝は、分譲マンションを連日足にマメが出来るほど捜し歩いて、手頃な物件を見つけると、ボーナスを敷金にして弟の志天を連れて引っ越していきました。
次女の恵參は、亡くなった主人の知人で、台湾の蒋介石総統府武官、陸軍少将という方の子息と結婚しました。商社マンの夫とともに、カナダのモントリオールに住み、出産を控えていました。「ママ、早くお産の手伝いにきて」と国際電話をよこすのですが、往復の旅費だけでも50万円はかかります。今の私に、そんなお金は逆立ちしてもあるはずがありません。
恵芝の勤めているノースウエスト航空では、社員とその家族用に自社便に限って無料の航空券を年間八枚支給していました。それさえあれば、世界中フリーパスです。恵參も、私がそれを使って来るだろうと思っていました。しかし恵芝は、私がモントリオールに行きたがっていることを承知のうえで、あえて無視していました。
「私たちは、あなたの子供じゃありませんからね。恵參だってそうよ。ママがカナダに行けると思ったら大間違いよ」とまで言いました。私が子供より神様を選んだことに対する恨み心が、そう言わせたのです。
そんなある日、彼女は志天と末弟の志聖を連れて、うさ晴らしに香港旅行に行ってしまいました。もちろん、無料航空券を使ってです。次男の志人だけが、私とともに取り残されました。志人はまた格別に純粋で、私はこの子の瞳に見つめられますと、何だか神様に心の内まで見透かされているような気がするのでした。まだ主人が元気でした頃、私が子供たちにちょっとでも腹を立てますと、この子は必ずこう言っていさめてくれました。
「ねぇ、ママ―。イエス様は人の罪を七の七十倍でも赦しなさいって言うのよ」
そして、にこっと笑うものですから、私は恥ずかしくなって絶句してしまうのでした。志人は、恵芝たちが香港に出掛けてしまったあとで、心配そうに言いました。
「ママ―。どうするの。カナダの姉さん、首を長くして待ってるから、早く行ったほうがいいよ。大きい姉さん、ママが憎いと言ってるのに、カナダの姉さんまでママが憎いと言ったらどうするの」
「わかってるけど、ママ、カナダに行くお金ないのよ。でもね。行かせてくださるのは神様ですからね。すべては、神様が御心をなさるんですよ」
三日目に、恵芝と弟たちが香港旅行から帰ってきて、玄関のドアをバーッと開けるなり言いました。
「ママっ、航空券用意してあるから、明日カナダに行ってらっしゃい」
私はびっくりして、思わず「ハレルヤ!」と主の名を賛美してしまいました。
娘は言いました。「また、神様のおかげだと言いたいんでしょ!」
こうして願った通り、カナダの恵參の家に行くことができました。
1978年に山谷で私の教会が「映画と音楽の夕べ」を開催した時、恵芝は会場入り口に献金箱を置き、入場者数を数えてくれました。おまけにその日は、私をタクシーで家まで送迎してくれて、帰りの車の中でこう言ってくれました。
「ママ。長生きしてね。苦労ばかりしている人が突然楽になると、ポックリ死んじゃうんですって。だからママ、栄養のあるものをうんと食べて」
「まぁー、これまで生きててよかった。あなたから、こんな言葉を聞くとは思わなかったわ」
胸がわくわくするほどうれしかったです。その後恵芝は、ヨーロッパ旅行中に出会ったスイス人男性から、プロポーズされて結婚しました。彼は、スイスで二番目に大きな城を持つ貴族の子孫で、ワイン工場を経営しています。
長男の志天は、明治学院大学を卒業して商社マンとなり、私の亡夫の故郷、北京に駐在するかたわら、中国、ロシア、アフリカ等の貧しい少数民族の学校、病院等を建てるボランティアとしても奉仕を続けています。「この親にして、この子ありだね」と私が言うと、志天は、「いやー、血筋は争えないよ」と言います。
志天はサラリーマンをしていましたが、突然神様からの召命をいただき、95年に神学校に入学しました。98年3月に卒業後、山谷伝道に献身するように導かれています。この子は、幼い頃から、「将来牧師」とあだ名がつくほど、信仰に熱心な子でした。
志聖は北京師範大学院に留学し、現在は貿易会社を経営しています。
私が神様を第一に選んで子供たちをお献げした時、神様は力強い御腕の中に守ってくださったのです。そして責任をもって、子供たちそれぞれの人生を導いてくださいました。私は、子供をめぐる神様のテストに合格できたのでした。
~再婚-神の御心によって~
主人が召天して、三か月の月日が経ちました。主人の介護をしなくてもいいことになったとはいえ、相変わらず化粧品セールスを続けながらの伝道で、目が回るほど忙しかったです。受洗者が増えるにつれ、ひとり身の限界をつくづく感じるようになりました。
そんなある日、伝道集会で信仰を決心した人たちに手を置いて祈っていた時、礼拝堂の隅のほうで初めから終わりまで泣いている男の人に気づきました。神様の聖さに触れたことによって、自分の汚れを知らされて悔い改めの涙を流す人は多いです。でもこれほどはっきりと神様に心を把えられた人は初めてでした。顔をはっきり見たわけではありませんが、腰に巻いているブルーの真新しいタオルが、私の心に刻み込まれてしまいました。そして、私までが泣きたいほどの願いが湧き起こってきて、涙ながらにこう祈らされたのでした。
―神様、どうかあの方を救ってください。そのためなら、私は命を捨てます。―
神様は、私たちが決心して告白したことは必ず成就なさるお方です。ですから、なまじっかのことを決心して言うべきではありません。だのになぜか私はこれほどまでに重大なことを言ってしまいました。この男性が、どんな事情をもつのか知る由もないのに。そしてたしかに神様は、その晩、この人を救ってくださいました。
数日後の朝、早天祈祷のため礼拝堂のドアを開けますと、すでに誰か来ており、ひざまずいて厳粛な態度で祈っていました。よく見ますと、あの伝道集会で泣き続けていた人でした。帰りがけに彼は「これ、あの、少しですが」と口ごもるように言って封筒を差し出しました。表には「徳野」と書いてあり、あとで開けてみますと、手の切れるような一万円札が三枚入っていました。そんなことが何回かありましたので、名前をすっかり憶えてしまいました。礼拝には何百人もの人が集まりますので、一人ひとりの名前を覚えきれるものではないのですが。
ある日、祈っていますと―【次】の人を【夫】として受け入れなさい。―という神様からの語りかけが心に入ってきました。次の人って誰のことだろうといぶかしく思いながらも、もう夫なんか真っ平だと思いました。亡夫のことを思い出すだけでもぞぅーっと身震いしました。介護しながら、私自身苦しみ抜いたからです。
それから三カ月後、徳野兄弟は礼拝や祈祷会にパッタリと来なくなってしまいました。他の教会員から、彼が「緑ホテル」に泊っているとの知らせを受けました。
実は私も、早天祈祷の最中に神様から「緑ホテルに泊っている徳野兄弟に、会いに行きなさい」と示されていましたので、訪ねていきました。そのように導かれたなら、従わざるを得ません。私個人の意思や感情は、完全に砕かれているのです。
当時、山谷の簡易宿泊所は、ホテル形式の個室に改築するところが多くなり、宿泊代も大幅に値上げしていました。それもあって、路上生活者が増えていったわけです。徳野兄弟は、そんなホテルの一つを常宿にしていました。それは、彼がとび職で、山谷労働者の中でも高給取りの部類に入るからでした。あとでわかったことでしたが。とび職は朝が早いです。出勤前に会わなくてはと思い、朝六時にホテルの前で待機して会うことができました。
「あなた最近ずっと教会に見えてないけど、どうなさったんですか」
この人は、実に口の思い人で、ひとこと話すのにも一分位かかります。
「……集会に、酔っ払いがやってきては騒ぐので、頭が痛くなってしまうんです。……僕は、自分の部屋でちゃんとお祈りして、賛美して、聖書を読んでますから……」
「聖書には、クリスチャンは安息日を守ることを第一としなければならない、と書いてあるでしょう。日曜日にはまず教会に来て、聖書を通してみことばをいただいて、神様の力と祝福を受けなければいけません」
これは、立ち話で済ませるわけにもいかないという気がしてきて、喫茶店でくわしく話すことにしました。ところが喫茶店に腰を下ろすなり、私の口からは思ってもみなかった言葉が飛び出してきたのです。
「私と結婚してください」
これには、われながら驚いてしまいました。なぜ、こんな言葉を言ってしまったのでしょう。しかも、心のどこかに、自分は言うべきことを言ったにすぎないとばかり、平然としているもう一人の自分がいます。そのことにも驚きました。徳野兄弟とは、個人的に話すのは初めてです。そういう人に、結婚という人生の重大事を、このように簡単に口走ってしまうなんて…。
そう思った瞬間、はっと蘇ったのは、三か月前神様に「【次】の人を【夫】として受け入れなさい」と言われた言葉でした。
(次の人とは、この人のことだったのか)
語呂合わせをするつもりはありませんが、徳野兄弟の名前は次夫です。私の言葉を聞くやいなや、徳野兄弟は顔が真っ青になり、血の気が引いてしまいました。そしてガタガタ震えながら言いました。
「あ、あ、あのう……、今、何て言われましたか……。も、もう一度おっしゃってください……」
そこで、私も正気を取り戻しました。
「実は、私もなぜかよくわからないんですけど、『私と結婚してください』と申し上げたんです。ショックでしょう。もちろん、今ここで返事をくださいとは申しません。あのね、三日間神様に祈ってください。そして三日後の午後三時、○○公園に来て、お返事ください」(続きはこちら)
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(本文は森本春子牧師の許可を得、「愛の絶叫(一粒社)」から転載しています。)
森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。