子供を選ぶか、神を選ぶか
主人の入院中、一カ月に一度、月曜日には帰宅することにしていました。思春期を迎えた子供たちのいろいろな相談ごとや話題に乗ってあげるのが、親としての最小限の義務だからです。
もちろん、それで済まされるとは思っていません。子供たちにしてみれば、親がいてもいないのと同然で、母親の愛に飢えた精神的孤児として過ごしていたのですから。それがわかっているだけに、私はいつも神様にこう祈るしかありませんでした。
―神様。私たちの命、私たちの人生、私たちのすべてが創造主であるあなたもののです。この子供たちも、主にお捧げした子供です。ですから、責任を持って育ててください。私は、年頃になった娘たちがお嫁に行く時でも、着物一枚買ってあげることができません。山谷の路上で暮らしている扶養家族が、何百人も待っているんですから。―
主人が召天した時、長女は25歳に、末っ子は15歳になっていました。次女は結婚しました。長女はスチュワーデスを続けながら、弟三人の学費、生活費、税金等のすべてをまかなってくれていました。
6年ぶりにわが家に戻りますと、子供たちが花束を持って玄関前の通路に並んで、拍手で出迎えて口々に歓迎してくれました。
「ママ―、お帰んなさい」
何だか、照れくさいのと晴れがましいのとで、落ち着かないまま部屋に入りました。やれやれ、これで一段落着いたと思ったのも束の間、次に待っていたのは、恵芝(長女の名前)のこんな言葉でした。
「ママ、ちょっとそこに座んなさい」
思わず、胸がドキンとしました。(何を言い出すのかしら、この娘は)
これでは、どちらが親だかわかりません。恵參(次女の名前)はやさしくおっとりしていますが、昔から恵芝は頭が切れすぎて怖いくらいでしたし、その頃は9カ国語がしゃべれるほどでした。弱点がないから人の落ち度が赦せない。私は逆で、おっちょこちょいで欠点だらけ、失敗だらけときています。ですから、恵芝が自分の娘だと思ったことはありません。
「ママ、私、今日を限りにわが家の大蔵大臣、文部大臣、外務大臣のポストをママに返上しますからね。ママ、これからはね、牧師をやめてください。いいですか。パパが病気だった時は、ママが神学校に入ろうと神学大学の大学院に聴講に通おうと、私は何も言えなかった。ママは、植物状態になってしまったパパを抱えて、私たちのできない看病をしながら苦労してたんだから。私だって大学を卒業したかったし、大学院にも行きたかった。海外にも行ってみたい。でも、家庭のために何もかも犠牲にしてしまった。
そのパパも天国に召されたんだから、悪いけど牧師をやめて。日曜礼拝に行くなとは言わない。でもあとは私たちに、今まで母親としてできなかったことの埋め合わせをしてちょうだい。ママは私たちにこの六年間、あったかいご飯を作ってくれたこと、一度もなかったでしょ!」
もちろん、恵芝の言うとおりなのですから、返す言葉もなく黙り込むしかありませんでした。しかし彼女は、そんな私が腹立たしいのでしょう。一段と声を張り上げて宣告しました。
「ママ!子供を選ぶの、神を選ぶの、どっちなの。二つに一つよ。返事してっ!」
(どうしよう)私の胸はドッキン、ドッキンと激しく鼓動しはじめました。恵芝の周りには、いつの間にか三人の息子が膝を揃えて座り、私の返事を待っています。
恵芝は、私が一カ月に一度帰った時も、そのつど私をぼろくそにののしりました。
「ふん!ママはお腹を痛めた自分の子供たちよりも、山谷の人たちのほうがかわいいのね。それでも母親なの?ママは母親としてはゼロだからね。ママみたいなバカ、見たことないわ。何よ。化粧品のセールスなんかして、朝から晩まで働いたって、山谷の人たちは一人や二人じゃないんだから、どんなによくしてやっても焼け石に水じゃない。まったく、こんな大バカ初めて見たわ」
どんなに叱られののしられても、私は何も反論できません。この娘の言うとおりなのですから。
「そうね。……うん、わかるわかる」
「何がわかるのよ。ママには、私の悩みなんかちっともわかっちゃいないわよ」
「いやー、わかってるわ……」
娘に言いたいだけ言わせてから、最後にこう言いました。
「恵芝さん、私より大バカ者はいるわよ」
「まさか。……誰なのその人」
「イエス様よ。イエス様は罪人の私たちを愛して愛して愛し抜いて、最後に自分の最も大切な命まで捨ててくださったじゃないの。そればかりか、ご自分の復活の霊的使命までも、信じる者に与えてくださっているわ。その弟子になるには、バカじゃなきゃなれないわよ。私は、自分がバカなのくらいわかっている。バカじゃなきゃ、伝道はできないのよ」
母親にとって、子供の命は自分の命より大切なものです。でも神様とどちらを選ぶかと迫られたら……。私は今やまな板の上の鯉のようなものでした。覚悟を決めて腹をくくるしかありません。
私は子供たちの前に、頭を深々と下げてこう言いました。
「ごめんなさい。私は神様を選ぶしかないの。私は五歳の時から、何十回自殺してもしきれないほど苦しい道を通らされたわ。絶望のどん底の中で、誰が助けてくれた?親か子かきょうだいか。私はイエス様以外、誰もいなかった。私が今日あるのは、イエス様のおかげなの。悪いけど、今日から私を母親と思わないでちょうだい。私は、神様の使命に生きる以外に道はないのよ」
「わかった。もういいっ。金輪際、親でもなければ子でもない。出て行けー」
恵芝はそれ以来、来る日も来る日も私の顔を見さえすれば、「出て行けー」と怒鳴りつけました。私は「この家を借りたのは私なのよ」と言いたいのをぐっとこらえて、ひたすら耐えました。
思えば、驚くべき神からのテストでした。後になってわかったのですが、このように大きな試練が来た時は、私たちの信仰が試される時なのです(続きはこちら)。
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(本文は森本春子牧師の許可を得、「愛の絶叫(一粒社)」から転載しています。)
森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。