米国バージニア州の自由主義者のコラムニストは、NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)の試合中に祈りをささげるデンバー・ブロンコスの選手ティム・テボウの姿を、イエス・キリストがしばしば戦わなければならなかったファリサイ人(偽善者)になぞらえた。
コラムニストのロバート・ポール・レイエス氏は、「イエス・キリストは、まるでハリウッド映画の登場人物のような見せ掛けの祈りをささげるファリサイ人を激しく非難した」と16日の『スチューデント・オペレーテッド・プレス』の記事内で語った。
「これらの宗教指導者たちは白いローブを翻し、公衆の面前で祈りをささげるのが大好きだった。ナザレの謙虚な大工は、こうした偽善の信仰者に警告したんだ。陰険で腹黒い者がどのように地獄の業火から逃れることができるのかと」
彼は、テボウがいつもマタイによる福音書6章5節の「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」というイエスの御言葉に背き、アメフトの場内で祈りをささげていると指摘している。
しかし、テボウのフィールドでの祈りとファリサイ人の祈りは違うのではないか。米テネシー州ノックスビルにあるチャーチ・ストリート・ユナイテッド・メソジスト教会主任牧師のアンディー・ファーガソン氏は、テボウの行動は「ファリサイ人と同レベル」ではないと信じている。
ファーガソン氏は、テボウが信仰を公にしていることで一部の人々から不快に思われていることを認めつつも、「彼の行動が偽善的だとは思わない。近年、世俗的な文化の中には『反宗教』的な何かがあり、『信仰』を公にすることが『侮辱』であるかのようにみなされることが多々ある」と米クリスチャンポスト紙に語った。
また、同氏は「ファリサイ人が公の場で祈りをささげたのは自分の敬虔さを誇示したかったからだが、テボウの場合はその代わりに神に栄光を帰しているんだ」と述べた。
米オハイオ州シンシナティにあるヴィネヤード・コミュニティ教会主任牧師のデイブ・ウォークマン氏は、「テボウの祈りは純粋なものだと思うが、米国人は信仰を個人的なものだと理解しており、公共の場でそれが表現されることを好まない傾向がある。米国人はそれをどうすべきか知っているんだ」とクリスチャンポスト紙に語った。
また、ウォークマン氏は、テボウが人生の中で信仰について「熱心な時期」にあるのかも知れず、年を重ねることで彼の考えも変わってくるかも知れないとし、「それは成長の過程なんだ。成熟するにつれて信仰を隠すようになるという意味ではなく、自らの信仰が人々にどのような影響を与えるのかということについてより慎重になっていくかも知れないということだ」と述べた。
さらに、ウォークマン氏は敬虔な祈りと偽善的な祈りをどう区別するかについて、「『動機』が全てだと思う。神は上辺ではなく心を見られるという。それが伝統的な信仰の考え方であり、私にとっての定義でもある」と語った。
テボウは2012年、彼の信仰に加え、NFLの選手としても好調な滑り出しを見せようとしている。チームの中での彼の将来は多少不明瞭ではあるが、ブロンコスの副代表であり元クウォーター・バックのジョン・エルウェイ氏は16日、テボウが来シーズンの強化合宿で先発クウォーター・バックになるだろうと発表した。
レイエス氏は、テボウの祈りが、自身を神の前に従順で謙遜な者に見せるための「利己的なもの」であると思っているようだが、テボウはこう語っている。「もしあなたが結婚して、妻を心から愛しているとしたら、結婚式の日にだけ『愛している』と言うだけで十分だろうか。それとも毎朝、また事ある毎に彼女に囁くだろうか」
テボウは言う。「僕はいつでも『神を愛している』とテレビで叫びたいんだ。もしそんな機会が与えられるなら、僕はそれを掴むつもりだよ」