私が「ばあ」にこんなにこだわるのには理由がある。私は「ばあ」を誤解し、憎んでいたからだ。まだ幼かったし、知識がなかったせいとはいえ、彼女が生きているうちに、そのことに気がつけばよかった。しかし悔やんでも、もう遅い。せめてここに書くことにより、「ばあ」への思いを伝えたい。そして、すべてを理解し、私を引き取り、わが子として育ててくれた愛に感謝を表わしたい。
私が父の家に引き取られたのは、小学校三年生の時だった。ある日学校から帰ると、母が「義之、大事な話があるから座りなさい」と正座した。「おっかん(お母さん)、何の話かい?」と、私も神妙に座った。「今日から、お父さんの家に行きなさい。ここはもうお前の家ではないから、お前はお父さんの所に行くんだよ」。母は涙を見せないように、きっぱりと言う。「どうして?俺にはお父さんはいないよ。おっかんだけじゃないか」と答えながら、私は一年生のころを思い出していた。字が読めるようになっていた私は、一学期の通信簿をもらい、自分の名前は榮義之なのに、母の名字が違うのに気がついたのである。「どうして名字が違うの?おっかんと同じにしてなあ」とせがむと、母は困り果て、とても悲しそうな顔をした。私は聞いてはいけないことを聞いたと思い、そのまま沈黙した。きっとあの時のことだと思うと、それ以上何も言えなかった。
母はしっかりと抱きしめてくれた。まるで二度と会えないかのようだった。それからわずかの荷物と勉強道具を、風呂敷に包んでくれた。動きたくなかった。行きたくなかった。自分を母から引き離す父はひどいと思った。
約二キロの夕方の道を涙をこらえて、私は一人歩いた。「おっかん」と、母の住む方角を何べんも振り返りつつ、父と言われた人の家に向かった。父の家は知っていた。「榮おじい」と「ばあ」と呼ばれている夫婦が住む家だった。運命を呪うということばはまだ知らなかったが、知っていたらきっとそう思い、人を呪い、神を呪ったであろう。
父の家はランプの光も明るかった。「ばあ」はごちそうを用意して待っていてくれた。「さあ、早くお上がり。遠慮しないでね。義之ちゃんの家はここなんだから」。優しく何くれとなく世話をしてくれる白髪の「ばあ」を見た時、私はこの「ばあ」が母をいじめ、自分を引き離したんだと思ってしまった。父はほとんど無口のままだ。「今日からお前のお父さんだよ」と言われ、「今日からここが義之ちゃんの家ですよ」と優しく言われても、それが八歳の子にどう理解できよう。新しい机、柔らかい布団、おいしそうな食事、全部が母から引き離す策略にしか見えなかった。もう何も言わない、返事だけしようと心に決めた。「今夜は早くお休み。疲れただろうから」と寝床を敷いてもらうと、もぐり込んで、声を出さずに泣いた。母が慕われ、ぬくもりが恋しい。
いつの間にか朝になっていた。様子がすっかり変わり、戸惑うことばかりだ。小学校だけはすごく近いので、急いで学校へ逃げ出した。小さな村で、もうみんなが知っていた。だれにも新しい家には来てほしくなかった。同じ方角の友達もいたが、母の所にまっすぐ帰った。そしてじゃれつく子犬のように母から離れなかった。「おっかん、ばんめし食べていい?」と聞いた。「だめです。向こうで用意してあるからね」。母はきっぱりと宣言するように言った。
弾むように母の所に帰り、後ろ髪を引かれるように父の家に帰る日が続いた。どうしても「榮おじい」にも「ばあ」にもなじむことができなかったが、言うことを聞かなければ母が悲しむ。
そのうちに、母の身体が思わしくなくなってきた。若い時の火傷が化膿したのだ。村には医者はいないし、町まで見てもらいに行く手段もお金もない。私は少しでも手伝いたくて、一〇〇メートルほど下の泉から水を瓶一杯に汲むのが日課になった。薪も拾ってこなくてはと、自分なりに頑張った。母は苦しい顔を見せなかった。だがその痛み苦しみは、どれほどにか辛かったに違いない。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。