ある集会で、隣の人と名刺を交換しました。名刺の肩書を見ると、「表現者」となっています。「珍しい肩書ですね。『表現者』って、一体どんなお仕事ですか?」と聞いてみました。
「これは仕事の肩書ではありません。私は自分自身を表現する者、すなわち表現者であるということです」
「なるほど。でも、だれでも自分自身を表現していると思うのですが、あえて『表現者』 という肩書を付けているのはどうしてですか?」
「自分の思いや感情を生き生きと表現し、相手に良いインパクトを与えるプロでありたいという意味です」
「はー、そうですか。すばらしいですねぇ」
よく意味がわかりませんでしたが、それ以上追求するのも失礼だと思い、わかったふりをしました。
その後、「表現者」ということばが妙に気になって、いろいろ考えました。
「表現者といえば、だれもが表現者のはずだ」
「それでは、私は自分の思いや感情を素直に表現しているだろうか?」
「もっと相手にわかるように、もっと強いインパクトを与えるように、もっと生き生きと自分を表現すべきではないだろうか?」
「表現者意識」を持とう
ホテルのレストランで定期的に行われている朝食会に、ある時、画商歴四十年というユニークなキャラクターの方が参加するようになりました。
長年にわたって芸術作品を手掛けてきたこともあってか、この方の感性と表現力は抜群でした。だれもが体験する日常の当たり前の出来事を、まるで映画や演劇で見せるように生き生きと語ってくれるのです。十分ほどのスピーチで、参加者の心を魅了し、涙させ、おなかの底から笑わせます。そのため参加者がどんどん増えてきました。
でも、事情でその方が出席できなくなったら、参加者が減ってしまいました。プロ級の「表現者」になると、その影響力は測り知れないものですね。それは同時に、主催者である私自身の表現力の足りなさを痛感させられました。
私たちはそれぞれが、自分なりに自分自身を表現しています。聖書によれば、私たちは神の作品なのです。神の作品であるからには、当然、一人ひとりが個性豊かな最高傑作であるはずです。私たちは偉大な神の栄光を輝かすように造られているのです。言い換えれば、私たちを通して、神はご自身のすばらしさを表現したいのです。
何と、私たちはそれぞれが、全能の愛の神を表現する「表現者」なのです! 実に、驚くべきことです。
さあそれでは、今の自分を見て、私たちは神を十分に表現していると言えるでしょうか?
「私は罪を赦された、ただの人間にすぎません。こんな私が神の栄光を現せるはずはありません」
こう思ってはいませんか? それは、私たちの「古い人、外なる人、肉なる人」のことです。神を信じることによって新しく造られた「新しい人、内なる人、霊なる人」である本当の自分は、完全無欠なる神と霊的に一つとされ、キリストの体の一部とされているほどにすばらしい存在なのです。神と霊的に一つとされ、キリストの体の一部とされている私たちは、それぞれ生まれつき神の栄光を輝かせているのです。
「私は神の表現者なのだ!」という意識を強く持って、至る所で、偉大なる愛の神の栄光を輝かせようではありませんか!
佐々木満男(ささき・みつお)
国際弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。インターナショナルVIPクラブ(東京大学)顧問、ラブ・クリエーション(創造科学普及運動)会長。
■外部リンク:【ブログ】アブラハムささきの「ドントウォリー!」