ハウス・オブ・ジョイ(HOJ)の設立者、烏山逸雄さん(56)がフィリピンに孤児院を建てたいと話すと、周囲の誰もが反対した。「絶対にうまくいかない」「運営資金をどうするんだ」そうした声ばかりだった。仕事を通して知り合ったフィリピン人の妻、アイダさんも乗り気ではなかった。
商社マンだった烏山さんと結婚して生活は安定していた。当時は日本で暮らし、生まれた娘もまだ小さかった。どうしてそんなリスクを冒さなければならないのか。フィリピンへの思いは嬉しかったが、アイダさんは思いとどまってくれることを期待していた。しかし、烏山さんの情熱は消えなかった。
商社を辞め、勉強のために日本の施設で2年間働いた。そこから導きのように道が開かれていく。かつて青年海外協力隊員として野菜の栽培指導をしたミンダナオ島で、カトリック教会が隣地を譲ってくれることになった。長崎で神父をしている烏山さんのお兄さんも協力を申し出て、さらに友人の何人かが援助に名乗りを上げてくれた。
施設の名は「ハウス・オブ・ジョイ」と決めた。親と暮らすことのできない子に「喜びの家」を与えたいという思いからだ。烏山さんが代表を務め、フィリピンの役所に提出する書類では院長をアイダさんとした。そうしたほうが手続きの上で外国人よりも面倒が起きにくいという。
日本大使館を通じた草の根無償資金協力で、建物の建設費を出してもらえることになった。これはフィリピン人にも利用できる福祉援助だが、日本の複雑な申請書類の作成は日本人でも困難を伴う。烏山夫妻の国際結婚の利点と役割分担があって、HOJの設立が進められた面もあった。
「見える行動で、見えない愛を表現したい」。烏山さんは広く支援を呼びかけた。1996年に家族でミンダナオに移り住み、翌年8月、14人の子どもたちを預かるところからHOJを開始。みんなの食費、スタッフの給与、資材の購入と出費が続き、12年の商社勤めで貯えた私財を注ぎこんだ。貯金は1年で底を尽く勢いだった。
妻のアイダさんは責任の重みと生活の不安とで苦しんでいた。「お父さん、やっぱり早すぎたのね」そう言われて、烏山さんも胸押される思いだった。子どもたちと一緒に隣りの教会に行き、「来月のお米がありますように」と祈ることもあった。そして、いつも不思議なタイミングで助けの手が差し伸べられてきた。
烏山さんの故郷、長崎県五島市の人たちを中心に「ハウス・オブ・ジョイを支える会」が結成され、烏山さんの訴えも届いたのか全国各地から支援が寄せられるようになっていく。「神様は実によく見ているものだ」と心から思えた。
すぐそばには「天使たち」もいる。物質的には貧しく過酷な環境で育ってきたフィリピンの子どもたちだが、その明るい笑顔と心の豊かさに触れるほどに「ほんとうに天使ではないかと思う瞬間がある」。貧しさの中にあっても、愛のやさしさと強さを見ることは、最高の幸せと感じられた。
そのようにして忙しくも満ち足りた毎日が過ぎ、HOJの運営も安定してきたと思えた頃、試練が訪れる。脳梗塞で烏山さんが倒れた。(続く:子どもたちのいるその場所で自分を活かす)
■ フィリピン児童養護施設を訪ねて : (1)(2)(3)(4)
■ ハウス・オブ・ジョイ
http://hoj.jp